1、アパートの決定と荘園不動産社長古旗(SAM)さん 〜ビザとグリーンカード〜
通常渡米する場合には、あらかじめ会社がアパートを決めてあったり、学生寮にはいることが決まっていたりするときを除いて、家族が1週間ほどホテルに泊まり込んでアパートを探したり、夫が先に行って生活環境を整えてからいくことも多い。しかし私の場合は、あらかじめアパートを決めておくために、7月に一回渡米していた。7月10日に成田を出発して、JAL006便でニューヨークJFK空港へ向けて出発した。今回全席TVモニターが設置されていたためか、前の座席との間が異常に狭い。斜め前のアメリカ人風の女性などは非常に大きいため(差別用語は使えない)、フライト中ずっと身動き一つ出来ない状態である。それ以前によくあの体型で着席できた(はまった)と驚いた(物理的に容積オーバー?)。 私も足すら伸ばせない状態で、12時間はさすがに堪(こた)えた。一方機内食は頻繁に出てくるので、私は関節痛のブロイラー(もしくはフォアグラのガチョウ)状態であった。
今回知り合いの第四銀行(新潟の地銀)の斉藤さんから、NYの不動産屋さんを紹介してもらっていた。斉藤さんは第四銀行の元第四銀行NY支店長で最後の支店長である。斉藤さんが支店長のときに、第四銀行はNY支店を撤収して引き上げてきた。実は私が学生時代1989年3月に卒業旅行で第四銀行NY支店(当時は駐在員事務所)にお邪魔したことがある。事務所は5番街の近くの1等地にあり、きれいなビルが印象的であった。当時のスタッフは日本人が2人、アメリカ人が2人であった。「これから地銀も国際化の時代です」といっていたのが大昔のようである。2000年現在、地銀ではほとんどNYに支店はないし、都銀もどんどんビジネスを撤退している。先日東京三菱銀行がNYで預金業務を辞め、ついに邦 銀で預金業務を行っている銀行はなくなってしまった。その斉藤さんがNY支店の撤収をお願いしたのが、荘園不動産の古旗社長である。
荘園不動産というと日本人にはややケバイ名前であるが、古旗さんが5年ほどまえに独立して作った会社である。斉藤さんから古旗さんを紹介してもらい、7月11日に会うということで話が付いた。あまり安いホテルに泊まるてと馬鹿にされるかと思い、インターネット経由で予約したヒルトンホテルに泊まった。JFK空港からマンハッタンまで、なるべく安く行こうと思い、空港バスに乗り込んだ。15分くらいすると摩天楼のビル群が見えてきて、ここに一年留学するんだという実感がわいてきた。長いフライトのあと時差ぼけでふらふらになりながらホテルにチェッインすると、既に古旗さんからホテルにファックスが届いていた。その後連絡を取り、明日メトロノース鉄道ハドソンライン・ライ(Rye)駅で8時30 分にあうことになった。ライというのは、昔ロバートデニーロとメリルストリープの「恋に落ちて‐Falling love」という映画の舞台となった駅である。
今回私はマンハッタンではなく、マンハッタンの北にあるNY州ウェストチェスター地区にアパートを借りることにしていた。日本人の駐在員が多くいる地域で、マンハッタンへは約30分ほどでいける。子供がいなければマンハッタンへ住むことも考えたが、子供連れなので郊外に住むことにした。翌7月11日、前日空港で買ったパンをほおばり、タクシーでグランドセントラルまでいった。ちょうど通勤客と反対方向なので、電車は空いていた。グランドセントラル駅を出発してから、最初に止まる駅がハーレム125丁目である。いきなり地下から地上に出ると、そこはハーレム。NYミッドタウンの金ぴかの高層ビルとハーレムの赤茶けた風景は、とても同じ国とは思えない。赤茶けて剥げた煉瓦(れんが)、破れたガラス、� ��てられた車、誰も住んでいない古ぼけたビル。まるで火星のような景観である。ハーレムをすぎると川を挟んでサウスブロンクスにつく。NYで最も危険といわれる地域である。駅の外側の落書きと鉄条網が、その実体を映し出している。NYは好景気が続いているといわれているが、未だ変わらない現実がそこにはある。
ところが10分もすると、風景が一変する。のどかな緑あふれる住宅街が目の前に広がる。2駅前には想像もつかなかった高級住宅街然(ぜん)とした風景が展開する。アメリカ階級社会の一部を垣間見たような景色である。電車は、時刻通り8時30分ライ駅に着いた。既に古旗さんが駅で待っていた。アメリカであったが一応名刺交換をし、日本式に挨拶をした。これから半日かけて6〜7件の家を回るという。とにかく今どこにいるのか、具体的にどこを回るのか全く見当がつかなかったので、古旗さんに任せるしかない。古旗さんがどうぞというので車に乗ろうとしたら、古旗さんが苦笑して「こちらからどうぞ」と教えてくれた。日本と運転席が逆なのをすっかり忘れていた。
最初に見にいったのは、ハリソンという駅前にある一軒家で、日本人の若い奥さんが日本へ帰る荷造りをしていた。日本式にいうと間取りはかなり広い3LDKで、バスルームが2つある。随分優雅な家だなと思った。しかし値段が2800ドルという。とりあえず話だけ聞いて、次へ向かった。その後何軒か不動産を見て回った。その地域はいわゆる高級住宅街ということで、途中「ここは野球のNYヤンキース・トーリ監督の家ですよ」とか、「前の市長の家ですよ」という説明を何回か聞いた。当日は快晴で、これぞアメリカという(?)天気で、緑濃いウェストチェスター地区を古旗さんの車で回った。ゴルフ場が点在し、映画の1シーンのような家が多かった。
最後に1件、これが現在の私のアパートであるが、急に情報が古旗さんの携帯に入ってきた。「ついでにもう一軒いってみましょう。」と古旗さんはいう。そこは今までの不動産と異なり、日本でいう賃貸マンションで、駅にも近い。しかも日本人が多く住み、コンシェルジェ(受付)が24時間チェックしている。部屋も日本の私のオンボロ官舎に比べ格段に広いうえに、ユニットバスが2組み付いてる(いわゆる2バスルーム:2BR)。我々はアメリカ暮らしビギナーであるので、ここが気に入った。家内とも国際電話ではなし、ここが良いということになった。古旗さんにその旨告げて大家と連絡を取ってもらうことにした。
不動産を見て回っている間にも、古旗さんの携帯電話には絶え間なく電話が入る。その際古旗さんはHow are you(発音はハウワイヤーに近い)?, This is Sam Kobata.と繰り返している。どうやらSamというのは古旗さんのことらしい。昼食時間になり日本食でも食べましょうかという話になった。近くの日本食レストランで$8.50の日替わり串カツ定食を食べながら、古旗さんの話をいろいろ聞いた。古旗さんは本名修(OSAMU)さんで、ニックネームをSAMとしていること、20年ほど前に留学のためアメリカに来て、その後ずっとアメリカにいること、永住権(グリーンカード)を取得していることなどをきいた。更にアメリカ市民権(Citizonship)をとると、法的にアメリカ国籍になる。例えば日本に行くときにもアメリカのパスポートになるため、今どうするか考慮中であるという。数年前に日本に帰ったら「女子高生の顔グロとルーズソックスにびっくりした。 」と笑いながらいった。もう日本に帰らないのですかと聞いたら、「今更何も日本のことを知らない中年の男を誰が雇いますか。」とやや複雑そうな顔をして答えた。
私は古旗さんからの連絡を待っていたが、返事はこない。大家は経営コンサルタントで忙しくなかなか捕まらないこと、そして大家は2年契約を望んでいることから、具体的な話は進んでいないらしい。今ニューヨークは景気がいいので、賃貸不動産は貸し手市場であり、そのマンションには既に他からも借りたいという話が来ているという。私はその間かなりハラハラしていたが、このためにわざわざ高いお金を払ったので、契約をして帰らないわけにはいかない。そこで一計を案じた。大家からする�
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我々はホテルに宿泊しながら、昼間はこれから引っ越すアパートに通った。掃除をしたり、荷物をすこしづつ運び入れて引っ越しをスムーズにするためである。車がないのでタクシーを使うしかない。マンハッタンのイエローキャブ(必ずメーターがある)と違い、ウェストチェスター地区のタクシーにはメーターがない。我々は他に方法がないので、黙って乗っていたが、値段は運転手の当て推量により決められる。中には自分が道を間違えておいて、その分を値段に上乗せしたドライバーもいる。行きと帰りで10ドル以上値段が違うことがあった。その中で私は現在でもクレストウッドタクシー(Crestwood Taxi)という会社を、可能な限り使うことにしている。なぜか。クレストウ ッドタクシーは、目的地を告げると本社に無線で連絡をして値段を聞くのである。私がタカホのタワークラブまでというと、運転手は無線で目的地を告げ、本社の係りが「14ドル」と答える。ごつい体の運転手が困ったような顔をして後ろ向きで「聞いたか」というので、私はにやりとしながら「Yes」と答える。おかげで毎回値段は同じである。
ホテルに何日もいると食事が単調になるので、近くのスーパー(アメリカでも食料品が売っている店をスーパーマーケットと呼ぶ)に買い出しに出かけた。買い物の途中そのスーパーで、急にトイレに行きたくなった。スーパーの従業員に聞いてトイレの場所を教えてもらうが、その場合たいてい従業員用のトイレである。アメリカでは、トイレは犯罪の温床となりやすいから顧客用のトイレが設置されていないことが多く、トイレに行くのに一苦労である。近年ニューヨークは、検事出身のジュリアーノ市長のおかげで、治安が格段によくなった。地下鉄も子供連れが多くなったし、落書きもめっきり減った。景気がいいせいもあって、あまりホームレスは見かけない。代わりにマンハッタンを歩いていて目に付くのは、拳銃を持 った警官である。必ずどの交差点にもいて、じっとあたりを眼孔(がんこう)鋭く監視している。これだけ警官がいると、犯罪をしたくとも出来ないというのが現状に近い。
従業員用のトイレにいった帰り、あまりお客がこない一角を通り過ぎた。そこにショーウィンドーがあったので何気なく除いてみたら、鎖につながれている拳銃が売っていた。値段が228ドル98セント。そこに税金8.75%が付くはずである。これで人を殺すことが出来る。それ以外の拳銃も何モデルか陳列してあった。私は何回もアメリカを旅行しているが、拳銃を見たのは初めてである。家内にそれを話したら、「モデルガンじゃないの。」といっていたが、間違いなく本物である。これから我々が住むウェストチェスター地区のスーパーで拳銃が売っているという現実。これがアメリカである。
3、ベッドがない!〜引っ越しと買い出し〜
ホテルに3日滞在した後、我々はアパートに引っ越した。日本でも引っ越しは大変であるが、これが外国だと苦労は5倍になる。我々は古旗さんに電話と電気を頼んでおいたので、これら2つは苦労しなくてすんだ。しかしアメリカは、これから話すように想像以上に「いい加減」なので、電話は入居の後1ヶ月後という話は珍しくない。その点我々はラッキーだったが、台所の冷蔵庫以外は家具は何もないので、すべて調達しなければならない。
私は最初インターネットのガレージセールで買えば、安く付くだろうと考えていた。現にインターネットを見ると(例えば
他に頼る相手もなかったので、我々は古旗さんに泣きついた。古旗さんは知り合いの「コート家具レンタル」というレンタル家具業者に無理矢理頼み込んでくれて、ベッド2台とハロゲンランプ(アメリカは間接照明で天井に電気はついていない)3台だけは何とかしてくれた。しかし毛布もなければ、枕もない。ダイニングテーブルもなければ、いすもない。しかもレンタカーも近くになかったから、この上はタクシーに乗って、買い物に行くしかない。
偶然隣にすんでいる日本人の人から、「ホワイトプレーンズにあるモール(郊外型のスーパーの中に食料品やら、衣料品やら日常雑貨を売る店が複合的に集まっている)の中のKマートというスーパーが何でも揃いますよ」と教えてもらった。アパートには毛布すらないので、時差ぼけでふらふらしながらも、悲壮な覚悟で買い物に出かけた。そのKマートは確かに大きく、何でも揃っていた。日本の2倍ほどある大きなカートに、我々は日用品を買いまくった。台所用品から、洗剤から、掃除機から、手当たり次第買い、荷物はカート1台に入りきらず2台が山盛りになった。その後食料品を買いに行き、カートを2つ持ってはスーパーに入れないので、家内一人がA&Pという食料品のスーパーへ入っていった。家内は、店員が 黒人で早口で何をいっているか聞き取れず、しかもトラベラーズチェックが最初受け取ってもらえなかったといって、半べそ状態であった。結局カートは3つになった。こんなに買い物をしたのは生まれて初めてである。
帰り道、我々は来るとき使ったタクシー会社に電話した。ところがニューヨークの人は早口で、しかも周りがうるさいため言葉がよく通じない。やっとの思いで「Kマートで待っているから来てください」というと、30分かかるという。しょうがなく我々はスーパーの前で、タクシーがくるのを待っていた。気が付いてみるとその付近はかなり汚く、酔っぱらって大声を上げている人が多い。ものすごく大きな黒人が何人か近づいて声をかけてきたように思えたが、怖くて無視していた。そんな中で我々は1時間以上待っていた。息子だけはいびきをかいてカートの上で寝ていた。後日その辺はあまり治安がよくない地域で、女性一人では危ないと聞かされた。
その間子供に漫画を見せようと思い、同じモールにある電気屋でTVを買った。我々は荷物でいっぱいだったので、宅配を頼んだ。とにかく子供のためにテレビが早く欲しい。その日は金曜日で、次の日に配達するには追加料金が必要だという。ビデオ付きテレビが250ドル、配達料が60ドル取られた。私は家族に顛末(てんまつ)を報告し、明日テレビがくるからと説明した。ところが次の日一日中アパートで待っていても、一向にテレビは届かない。しびれを切らし、電気屋に電話すると、今日は土曜日なので配達できないという。「そんなのはわかっていて60ドルも払ったのに」と抗議すると、明日必ず配達するという。結局その日一日無駄になった。
金曜日帰ってから家内は食事の準備を始めたが、家具が揃っていないため食卓はなく、段ボールをひっくり返した上にナイロンをしいた食卓で家族3人食事をした。私と家内は「戦争中はこんな感じだったのかなあ」と話し合った。食事した後も、備え付きの自動皿洗い機はあるが、テレビがない。日本から持参した5インチ画面のDVDを床において、3人で子供用のアンパンマンを見ていた。それで子供は何とか愚図らずにすんだ。
次の土曜日、予め電気屋に電話したら、担当者は休みでわからないという。そこで代わりの人にきくと、今日は日曜日なので配達は早くて月曜日という。何回聞いても埒があかないので、その旨を家族にいったら、明らかに家族は不満な顔をした。とにかく必需品が半分ぐらいしか揃ってないので、今日は買い物に出かけなければならない。タクシーを呼んでKマートに買い物に出かけた。そのときも前回と同じくタクシーのトランクに入りきらないくらい買い物をして、ついでに電気屋へテレビを引き取りにいった。その電気屋はUPIという大きな運送業者にテレビの配達を頼んだから、テレビは既にないといった。その後月曜日になり、UPIに電話して何時頃になるかと聞いたら、テレビは今日処理したので7営業日(7bui siness days)以内に届くという。事情を説明したが、暖簾(のれん)に腕押し、糠(ぬか)に釘。家内は子供の顔を見て悲しそうな顔をするし、さすがに私自身も泣きたくなってきた。
その2日後テレビは配達されたが、その日の朝「これから配達するから」といってUPIから電話がかかってきた。何時頃かと聞いたら、9時から3時までの間という。結局配達に来たのは3時半頃だった。早速テレビをつけようと思ったら、室内アンテナがない。下の受付で聞いてみたらケーブルテレビと契約しないと番組は見れない、という。ケーブルテレビ会社に電話したら答えは、「1週間以内」。忍耐あるのみである。この話を大学で大蔵省から来た川上さんに話をしたら、彼の友人は電話工事会社から8時から5時までに来るといわれ、実際来たのは9時だったという。
公民のいくつかの例は何ですか?
古旗さんのおかげでベッドと電灯は借りられたが、食卓やいす、机などはなかったので、相変わらず段ボールを食卓代わりにしていた。結局1年なのでインターネットで買うのはあきらめて、他の家具もレンタルで揃えることにした。マンハッタンにあるコート家具レンタルのオフィスに行き、借りたい家具を選んだ。担当者は日本人の村井さんという女性である。毎月200ドル以内という制約があったので、いかに安く見栄えのするものを借りるかが大変だった。私もNYで様々な日本人にあったが、彼らの多くは日系人相手のビジネスをしている。この点は弁護士も同じで、うまくすると1年で弁護士資格を取ることは出来るが、英語で20年以上 も生活してきた弁護士と同じく英語で仕事をするのは困難である。
村井さんは日本の大学在学中にウェストヴァージニア大学に留学し、そのまま卒業して、NYに来たという、まだ20代前半の女性である。村井さんは、NYではよくあることだが、生活費を切りつめるためにクイーンズと呼ばれる地域に友達と部屋をシェア(共同生活)しているという。契約書(アメリカは契約社会である)にサインをし、出してもらったコーヒーを飲んで雑談をしているときに、村井さんはぽつりと言った。「私はいつまでここにいるのでしょう。」
(10月12日)
4、SSNとクレジットヒストリー 〜携帯すらもてない〜
私は学生のように毎日学校に通っているので、うちの家内から私に連絡を取るのは携帯電話を除いて方法がない。大学の前で無料携帯電話の勧誘をしていたので、ビラを配っていた店に行き、一番大手のAT&Tという会社にした(最近業績がかなり悪いらしいことは後で知った)。そこで申込書を書いたが、私は日本のクレジットカードはあるが(当然滞納したことは一度もない)、SSN(ソーシャル・セキュリティ・ナンバー:社会保障番号)がない。一応日本で取ったクレジットカード番号を書いて申し込んだら、30分以上も待たされたあげく、携帯電話はSSNがないと取れないという。日本では高校生でも持っているのに、アメリカではSSNがないと社長だろうが、教授だろうが携帯はもてない。南米系の太ったがめつそ� ��なおばさんに、「AT&TがOKといわない。」といわれがっくりして引き返した。
このようにアメリカではSSNが不可欠である。これがないと銀行口座も開けないし、クレジットカードももてない。SSNを申請するためには、SSオフィスに行かなければならない。私は最初大学から近いという理由で、ハーレムにある125丁目にあるSSオフィスに行った。大学は116丁目付近にあり、10ブロックほどさかのぼったわけだが、歩くに従って、段々建物が薄汚れてくる。周りに異様なにおいが充満し、薄気味(うすきみ)悪くなってきた。125丁目はハーレムのメインストリートなので細かな路地に入らなければ大丈夫と聞いてきたが、それでも通りの人は迫力十分である。ようやくオフィスが見つかり入ったが、そこは一種異様な雰囲気である。ソシャルセキュリティ事務所にも警官らしき人� �何人もいて、来る人をチェックしている。その理由はすぐ分かった。
オフィスには、私のように外国人でビザを持っているものが、経済活動をするために番号を取得するものの他に、怪我をしたり病気で働けなくなり保障を申請しに来ているものも多い。アルコール臭いものや車椅子に乗ったものが口々に不満を訴え、身振り手振りで窮状を訴える様子は、アメリカの好況ともミッドタウンの喧噪とも全く無縁の世界である。何人かは大声を張り上げて、警備員に両手を抱えられて外に連れ出されていた。事務員はガラスの敷居の向こうにいて目の前にいるのに、マイク越しで話をする。私の前の人が移民で、娘さんがどうもうまく話せないらしく、30分以上も話をしていた。ようやく私の番が来たと思ったら、どうでも良いような書類不備で出直し。普段はおおざっぱなくせに、妙なところ� �細かいのがアメリカ人である。まるで日本の大病院のように、2時間待って、話したのは3分だった。
次の日書類を揃えてもう一度SSオフィスに向かった。ハーレムのオフィスがかなり不気味だったこともあり、マンハッタンのミッドタウンのSSオフィスに行った。しかしミッドタウンのSSオフィスは、ハーレムより混んでいた。今回はやっとの事で書類を受理してもらい、1週間後電話をすれば、SSNを教えてくれるという。銀行口座と携帯電話を買うために、一日でも早くSSNが欲しい。NYのアメリカ人は日本にいるアメリカ人と異なり、ほとんど愛想笑いはしない。SSオフィスは職業上いっそう無愛想である。
アメリカでは自動引き落としはあまり普及しておらず、電気や電話などの公共料金は毎月請求が来ると、銀行小切手を振り出して同封の封筒に入れ返送する。その小切手が決済されることにより、料金が支払われる仕組みである。クレジットカードも毎月明細を確認してから小切手を送る。アメリカ(もちろん日本でも)ではむやみにクレジットカード番号を教えては行けないといわれる。知り合いの自治省の人は、レストランでカードを使ったところ、ウエイターが勝手に番号を記録して5000ドル以上の請求をしたそうである。個人的には小切手を郵便で送る方が、危ないと思うのだが。従って銀行口座がないと公共料金の支払いが出来ない。一日でも早く番号を知りたかった理由がこれである。
1週間後電話でSSオフィスから自分の番号を聞き、銀行口座を開いて、その足で携帯電話を買いに行った。前回の印象が強烈だったので、おなじ店に行き、前回の雪辱をしようと意気込んで出かけた。同じくAT&Tに申し込んだら、電話のオペレーターのお兄さんがその場で、私のSSNはまだ発行されておらず、しかもクレジットヒストリーもないから携帯電話は販売できないという。クレジットヒストリーがないのは当たり前で前日にとったばかりである。むしろ唖然(あぜん)としたのは、携帯電話のオペレータでさえ、SSN経由で即座に私の信用情報を確認できたことである。私は前に「エネミー・オブ・アメリカ:[Enemy of the Nation]」という映画を見たが、その中で政府の組織がやっていたように、インターネットなどを経由すれば個人情報に簡単にアクセスできるシーンは、既に現実である。
その間仕方なくブックショップで売っていたプリペイド式の携帯電話を、100ドル以上も出して買った。通常の携帯電話は日本と同じく古い機種はただで配っている。しかしこの携帯は100ドルもするのに、非常に重く、電池は一日も持たない。番号は20桁の特殊の番号で、しかもまともに通じる確率がなぜか3回に1回である。通話料も通常の携帯電話は通話料300分まで20ドルなのに、この携帯は30分50ドルである。しかも補充の仕方が非常に複雑で、まず一回ではうまくいかない。まるでアメリカ人による集団いじめにあっているようである。
SSNカードも発行され、小切手の決済も済んだ1ヶ月後の10月に入ってから、今回は別の大きな電話販売会社に、SSNと日本のビザカードを番号を添えて頼んだ。「こんどこそは」と思って待っていた数日後、WorldComというその会社から手紙が来た。その中には「携帯電話を売って欲しければ、1200ドル(!)の補償金(Deposit)が必要である。」という。収入のない大学生などが申し込むと800ドルの補償金を払えという話は聞いたことがあるが、日本の国立大学助教授には1200ドル払えという。同じビザカードでもアメリカ国内で発行されたものでなければ、クレジットヒストリーにならないという。自分の国のもの以外は一切信用しない、これがアメリカ社会である。また後日コロンビア大学の学� �向け(一番取得が簡単なカード)に勧誘していたビザカード(ドル決済)を申し込んだら、1ヶ月位して「発行できない」というレターが届いた。アメリカで正式の職に就いていない来たばかりの外国人は、言葉は悪いが、猿並の取扱である。それをうちの家内に言うと「それじゃあ私は猿以下ね」といわれ全く返す言葉がなかった。家内はJ−2ビザなので、SSNの発行が認められず、自動車試験の受験がかなり困難であったからである。
あんまり頭に来たので日本に帰ったらどこかの講演でその話を使ってやろうと思い、実はしっかりその紙を保管してある。なお大きな声ではいえないが、知り合いの日本政府の関係者(別に怪しい人ではないが、前出の自治省の人)にこの話をしたら、なんと知り合いの日本人の業者にその場で頼んでくれた。その2日後何の問題もなく、私の家に通常の携帯電話が郵送されてきた。どうやったかは残念ながら詳しくここではいえないが、私はこのようにして手に入れた携帯を毎日複雑な思いで使っている。
5、車社会アメリカ 〜自動車免許と自己責任〜
そこには、米国でどのように多くの飢えた子供たちですか?
アメリカでは車は必要不可欠である。マンハッタンの中に住む場合には不要であるが、それ以外の地域に住むには、車がないと生活できない。車がないと買い物にもタクシーを使わざるを得ず、料金やらチップやらで大変である。これもまた古旗さんに聞いて、近くにあるセイロモータースという日系の中古車販売会社から車を買うことにした。セイロモータースは主に日本人を顧客としている。我々の滞在予定は1年であるので、良い車は要らない。はじめから予算を5000ドルとして車を探した。するとほとんどの車が対象外となった。日本車を探したが、よっぽど古い車でないと条件に合わない。結局フォード社の95� ��製1500ccが、唯一5800ドルということで射程内だった。しかしこれから税金や登録料を入れると、ゆうに6000ドルは超えそうである。少し考えていたら古旗さんが「でもこれおまけしてくれるんでしょう。」という。すると加畑さんという営業の人が、「もちろん。」という。結局オイル無料交換などのサービス、税金込みで5500ドルになった。この辺はNYの日系人社会ならではの「あうん」の呼吸があるらしい。
NYで車を登録すると、自由の女神の付いたナンバープレートがもらえる。日本人には大人気で、だいたいみんな日本に一枚もって帰るそうである。しかし来年から自由の女神は付かなくなるらしく、加畑さんは「今年がチャンスですよ」といっていた。今年がチャンスといえば、今アメリカでは各州のシンボルマークが付いたクオーター(25セント)が発行されている。玩具やさんへいくとクオーターを入れるあなの付いたアメリカ地図が売っている。それぞれの州のクオーターを埋め込むとその地図は完成する。NYは2001年なので、学生のおみやげをこれにしよう(1人25円)と今から考えている。ただし説明をしっかりしないと有り難みはない。
ナンバープレート自体は薄いので、古い車のプレートの多くは曲がっている。そこで多くの人はプレートの周りに「わく(いまだに名前は分からない)」を取り付けて補強している。その枠には「TOYOTA」とか「Ford NY」とかロゴが入っている。しかし私のは中古車でその「わく」はもらえなかったので、大学のブックショップで「ColumbiaLAW」というロゴ付きの「わく」を買った。他に売っている店がなかったからである。ところが気のせいかこの「わく」をつけた途端、後ろの車がやたら車間距離をあけるようになった。うちの家内も同じことを言っていた。どうやら後続車は私の車にぶつけると、私はおそらく弁護士で、どんな因縁を付けられるかわからないと思っているのではないかと想像し� �いる。
自動車を買う際に必ず必要となるのは、自動車保険である。保険がないと自動車の登録が出来ない。アメリカで自分で保険会社を探すと煩雑で大変だと話を聞いたので、JALクラブ提携の自動車保険に入ることにした。それでもInformation Cardに「週何回乗るか、過去の事故歴はあるか、ドラッグを使うか」などを書かされる。アメリカでは保険料に非常にばらつきがあり、なかには車は5000ドル、保険料年間8000ドルという例がある。申請する情報により保険料が異なることを聞いたので、念入りに申込書を書いた。自動車の情報を送り、我々の情報を送ると保険料がファックスされてくる。そこで電話でOKの意思表示をすると契約成立である。保険料は後から請求が来るので、銀行小切手を送って決済する。しかしこ れで手続が終わったと思ったら大間違い。アメリカではどこまでも手続が追い掛けてくる。車両保険の契約を有効にするためには、カルコ・Carcoという写真の検査を受けなければならない。これは指定のガソリンスタンドに行かなければならず、電話で場所を確認して地図でいくわけだが、アメリカに着いたばかりで知らないところへいくのはかなり疲れる。
車が来て初めて、我々は買い物に行った。これで安心だと思ったわけではないが、通称100番と呼ばれている道路沿いのショッピングモールに買い物に出かけた。その辺もあまり環境がよい地域ではないらしく、モール自体はあまりきれいではなかったが、品揃えは豊富で安い。そこでつい買い物をしすぎて帰ってきたら、車がこすられていた。バンパーに赤い塗料が付着していた。アメリカでは駐車場も「危険地域」とされているので、なるべく店に近いところに駐車ておくのが一般的である。後で日本人に聞いたら「あの辺のスーパーで車を何時間も置きっぱなしにしては行けませんよ」といわれた。保険で直そうとしたら次の半年契約が高くなるといわれ、結局そのままにして乗っている。縁が赤くなったバンパーを� �るたびに、私は気を引き締めている。
アメリカでは自動車自体の盗難も多い。私の場合は「むしろ車自体が盗まれなくてよかったですね」といわれた。アメリカの車は通常オートロックになっていて、盗難防止のアラームが装備されている。しかしこれは慣れないと大変である。ロックをあけてからトランクを中から開けるという手順を忘れると、途端に「ピコ、ピコ、ビー」と鳴り始める。これが半端な音ではない。うちの子供はこの後が大嫌いで、この音を聞く度泣き始める。おかげで私は2重の警報を聞くことになる。しかしアメリカ人でもなれていない人が多いらしく、買い物にいき駐車場に車を止めるとあちこちで「ピコピコ、ビービー」やっている。
国際免許は旅行者用なので有効期間は1ヶ月である。それ以上滞在する場合にはNY州の免許を取らなければならない。日本では誰でも自動車学校に行けば免許が取れるが、NYではまず試験を受けるための資格が厳しい。NYでは受けるためにポイント制を採っている。そのためにはパスポート(3ポイント)の他にSSN(2ポイント)やクレジットカード(1ポイント)、バンクカード(1ポイント)などが必要となる。うちの家内のビザではSSNは取れないので、6ポイント揃うためにバンクカードが来るまで最低2ヶ月必要となる。日本人の中には1年以内の滞在なら、国際免許で済ませる人も多い。このようにアメリカに住むためには手続が非常に煩雑で大変である。手続自体はいい加減だが、変なところで厳� �いのもアメリカらしい。
まず最初のステップは仮免許(ラーナーズパミット:Lerner'spermit)をとることである。免許センターに行き、筆記試験を受ける。これは日本語でも受けられるが、実にいい加減である。1994年以来問題が変わっていないらしく、自動車学校の問題とほとんど同じである。黒人女性の検査官からもらった問題20問のうち、16問とれば合格である。合格すると受験料を払い、持参した書類を審査して(6ポイントあるか)、臨時仮免が発行される。これで免許がある人が横にいれば公道を運転できる。次のステップは4時間講習の受講である。NYには安全自動車学校(これもケバイ名前である)とアクト自動車学校の2つがあり、私は電話応対がよかったアクトにした。
10月7日日曜日にウェストチェスター地区のスカースデールで講習は行われたが、受講生が5名しかおらず予定していた内職(他の仕事)は出来なかったので、渋々話を聞いていた。しかし話を聞いてみるとこれがおもしろい。2回くらい講演するネタが増えた。4時間講習が終わると、最後に路上試験となる。日本のような教習所で行うのではなく、住宅街のようなところで試験を行う。5人に一人くらい落ちるという。アクトドライビングスクールの車で30分練習をし、本番の試験を受けた。私の前の女性がスタートしたら、1分ぐらいで戻ってきた。どうやら試験に落ちたらしい。黒人の試験官が、身振り手振りで落ちた理由を説明している。試験に落ちた若い女性は泣き出してしまった。目の前で試験に落ちるのを見る のは、嫌なものである。しかも試験官の順番が狂って、その試験官が私の担当になる。次に私の番ということで試験官が横に乗り込み、試験開始。事前の打ち合わせ通り、3ポイントターン(Uターン)、パラレル(縦列駐車)をこなし、5分ほどで試験終了、無事合格となった。その場で臨時免許(単なる黄色い用紙)が発行される。
アメリカで生活必需品の車・自動車免許・自動車保険を取得して思ったのは、日本の交通法規とアメリカでは根本的な考え方の違いである。例えば@アメリカでは優先権のなく、はじめに来た方が先に通行する(first come, first go)の発想である。従って交差点で少しでもぐずぐずすると対向車が左折をする。A事故に関しても日本だと追突は100:0ということになっているが、こちらでは100:0ということはあり得ない。全て保険会社同士の話し合いである。つまりハンドルを握った以上は事故になれば免責されることはなく、事故になれば必ず自動車保険が値上がりする。事故になれば全て自分が損をするので、事故を起こさない運転:defensive drivingの発想が出てくる 。Bアメリカでは自転車や歩行者だからといって優遇されるわけではなく、マンハッタンでは実際に自転車に違反切符を切ったという話を聞いた。これらの話を総合すると、「日本では、車は危険なので特に許された人しか運転を許さず、その危険な車を運転している人はもし歩行者に危害を加えた場合には、100%責任を負う、という発想である。自動車は走る危険物体なので止まっている車に追突した場合には追突した方がわるい。」。これに対しアメリカでは「車は生活必需品であり、誰でも運転する権利がある。交通をスムーズに行うために歩行者といえども注意して歩かなければならず、注意しなかったときには責任を負う。よほど向いていないものだけ落とす。とってしまったら自己責任。事故ったら来年の保険が3� �、ぶつけられてもあがる。100対ゼロはない。」ということになろう。これは車だけでなく全てにおいてアメリカでいえることである。
6、生活に早く慣れるためには 〜米国という社会〜
今年の大リーグは、NYヤンキース対NYメッツのいわゆるサブウェイシリーズ(両球団の本拠地は地下鉄で行き来できる)であった。地下鉄に乗るとヤンキースやメッツの写真が一面に載っている新聞や、両球団のユニフォームを着たファンらしき人が数多くみられる。また大統領選挙が大詰めを迎え、テレビでブッシュ・ゴア両大統領候補(2000年10月27日現在)の顔を見ない日はない。今回は史上まれにみる大接戦というのが、大方の評価である。今回話題になったのは、ユダヤ人(リーバーマン候補)が初めてゴア陣営の候補者になったことである。NYには特にユダヤ人の数が多く、約300万人が住むといわれる。またNYは実に国際色豊かで、特に南米系の住人が近年急増している。彼らはEl Doradoというスペイン� �新聞を読んでいるのですぐ分かる。2050年には半数以上が非白人となるという。
前にも書いたようにNYでは、ケーブルテレビを申し込まないとテレビが見れない。チャンネル数はベーシックでも30チャンネル以上あり、その中にはFoodChannelというチャンネルは1日中食べ物の話をしたり(日本の「料理の鉄人」も英語で見られる)、昔のスポーツばかり流しているチャンネルもあり、医療の話ばかり放送するHealthチャンネルというチャンネルもある。前に書いたように南米系の移民が急増しているので、スペイン語放送も2局あり、日本語の番組は日に3時間ほど放送される。中でも興味を持ったのは、Courtチャンネルである。重要な判決が出る日には、日本の裁判はテレビ非公開なのと対照的に、判決言い渡しが生中継で放映される。弁護士の数が日本と比べて極めて多いアメリカの一面である。タワ ークラブにも弁護士らしき人は多い。偶然エレベーター内であったEricというアメリカ人は、法律系のデータベースであるLexisのTシャツを着ていて、聞いてみたらやはり弁護士だった。やや頭が薄くなって貫禄が出てきているが(実は1歳年下である!)、企業買収を専門に扱っている弁護士(アソシエートという)である。彼の奥さんも弁護士で、NYのシラキュース大学の出身で日本の名古屋と東京にも滞在していたことがあるという。NYは景気がいいため、弁護士の年収は鰻登りである。彼は部屋のオーナーで、後日見つけたところによると、住民組合のVice President(副会長)であった。貫禄からすると当然かなと私は一人で納得した。
タワークラブには条件が合うためか日本人が多い。現在では30%が日本人である。部屋が2LDKということもあり、若い夫婦が多い。早く生活になれるには彼らから生の情報をもらうのが一番である。スーパーなどの買い物情報や学校、医者などは必要不可欠で非常に貴重な情報である。中にはアメリカ来た意味がないのであまり日本人と付き合わないという人もいるが、彼らの情報は非常に正確であり、付き合っても損はないというのが個人的な意見である。NYやロサンゼルスなどの大都市には日系人社会があり、その中にいるとほとんど日本と変わらない。うちの近くに「フジマート」という日系のスーパーがあり、日本食から、お菓子から、レンタルビデオ(日本のテレビ番組も多い)から何でもある。しかし値段は約1� ��5倍から2倍である。日本の歯磨き粉(クリアグリーン)1つ5ドル(550円)では私には手が出ないが、結構売れているようである。最近個人的にフジマートから借りてくる1ヶ月遅れのテレビ東京「何でも鑑定団」を見るのが、密かな楽しみである。大学から帰ってくると「もう英語は十分」という気になるので、家族が寝静まった頃一人で笑いをかみ殺しながら見ている。
逆に毎月の生活費の中で安くてびっくりしたのが電話代である。アメリカの公衆電話は高く市内通話でも1分25セントである。大学からうちへかけるときには遠距離になるので、必ず2ないし3ドルはかかる。しかもお釣りは出ない。しかし自宅からかける電話は何社も競争をしているので、特に遠距離は安い。一月で10ドルくらいである。アメリカはストレンジャーに対して非常に厳しい。しかし一旦社会の一員となり、一人前と認められると、はじめて競争社会のメリットを受けることができる。
フジマートの中には刺身や魚コーナーがあり、マグロやウニの刺身が形よく盛られている。しかし必ずと言っていいほど、そのような作業をしているのは南米系やインド系の人である。白人がスーパーの店員やマクドナルドの受付ということは、ほとんどない。スーパーへ行くと、こちらがいくら一生懸命はなしても通じないことが多い。よく聞いてみると彼らもアメリカ人でなく、南米やインドから移民してきた人である。英語も片言だったり訛りが強くで聞き取れない。家内は何を店員が何をいっているのか分からず落ち込んでいたが、店員の方にも問題がある。彼らはほとんど笑わないし、いつもニコニコしているのは、ディズニーランドや5番街等観光地のアメリカ人ぐらいである。サービスの良い店員というのにあったこ とがない。アメリカ人は基本的にサービス業に向いていないと思うことも、しばしばである。最近はそれになれてきて、意味もなくニコニコしている店員を見ると逆に不気味である。
ある日タワークラブでビル管理をしているカルロという南米系アメリカ人が、朝早くから看板を首にぶら下げてタワークラブの前に立っている。よく見るとストライキ中であるという。その日は寒い日であったが、おそらく一日中外で立っていたのだろう。帰ってきたら彼はニコニコしている。彼に「どうだったか」と聞くと「我々が勝った。」という。聞くと月に150ドルほど給料が上がったらしい。一方エレベーターであったEricは頭は薄いがまだ34歳で、もう3000万円以上のマンションのオーナーである。新人弁護士の初任給はうなぎ登りで、毎年5千ドルぐらいづつ上昇している。会社でもマネージメント(役員や部長クラス)は一流大学を出た人であり、一般職員が社長になることはない。
先日アメリカに来て初めて床屋に行った。毎週昼食を一緒に食べる現職裁判官で、LLMに留学中の衣斐(えび)さん(彼についてはまた詳しく述べる)、が急にひどくまっすぐなヘヤースタイルになった。近くのアメリカ人の床屋のおじさんにやってもらって、12ドルで10分で終わったといっていた。そのヘヤースタイルがあまりに男性的であったので、私は日本人がオーナーの「ホシ・クープ」という床屋に行った。そこで担当となった日本人女性はしばらく日本語で話してなかったらしく、「電話会社に騙(だま)されたんですよ。」という話をずっとしていた。長い(?)話を要約すると、彼女は今月突然今までの3倍以上の電話代を請求された。そんな時間に電話はしていないという彼女に、電話会社はそれなら証人 を連れてきて証明しろという。彼女は結局電話会社を替えたそうだが、アメリカは電話代一つでも自己主張しないと生きていけない社会である。アメリカではDo it yourselfということがよく言われるが、要するに自分以外は信用しないということである。その点特にNYは厳しい(Toughという言葉がぴったりである)。
コロンビア大学に北大から関さんという女性が、留学している。彼女はある日自転車を一日大学に駐車した。その日たまたま鎖を自転車の本体にしていかなかったそうで、次の日来てみるとなんと自転車は鎖がかかっていたタイヤだけを残して盗まれていた。残念ながらその光景を、写真を撮るのを忘れた。その話を聞いて、私はなぜブックショップに鎖が売っているかを理解した。図書館にパソコンを持ち込む際に机に鎖で備え付けるのである。残念ながら私のパソコンはそういう構造になっていないので、私は毎日パソコンを専用の鞄に入れ首から斜めに、ぶら下げて大学を歩くようにしている。人に見せられる格好ではない。
(10月27日)
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