2012年5月6日日曜日

チベット旅行者のための状況説明書:チベットを知るために


2008年版 チベット人権民主センター

目次

序文

「今、我々の2000年におよぶ長い歴史の中で、最悪の時代を迎えている。まことに、最も深刻な時代である。
今この時、チベットの国が丸ごと、その独自の文化遺産とともに完全に消え失せてしまうような、あらゆる危険にさらされている・・・。
現在の状況はまことに深刻で、生死に関わる問題である。
死が訪れれば、あとには何も残らない。」

ダライ・ラマ法王

この度、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(チベットハウス)から、「チベット旅行者のための状況説明書」『Briefing Paper for Travelers to Tibet』を翻訳することができました。

この内容は、チベット人権民主センター(TCHRD)が、チベットの政治状況をあまり知らないか、全く知らない旅行者への指針 となるよう、また、状況をすでにご存知の方にも補完情報を提供するために、2008年に、この状況説明書を作成しました。チベット人権民主センターの許可の下、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(チベットハウス)が日本語訳したものであります。

本書を通じて、チベットを旅行するべきかどうか、どのように振舞うべきか、歴史的背景、チベットの現状の裏にあるもの、チベット自治区内、チベットの観光スポット、政治的にデリケートな日、チベットの祭り、よくある質問 (FAQ)などを御紹介するとともに、国際社会の皆様にチベットのためにこれからも変わらぬご支援をお願いしたいと存じます。

「チベット旅行者のための状況説明書」によってチベットの真実、苦難、希望と決意を広く皆様に知って頂ければ幸いに存じます。

日本語版の翻訳に携わってくださった吉田明子様に御礼を申し上げます。

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
代表:ラクパ・ツォコ

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はじめに

1959年以降、中国政府は欧米流の手法でチベットを開発し、「発展した国」だとするプロパガンダを長年、推し進めてきました。しかし、中国のやり方で、チベットの一般の人々の生活は改善しませんでした。 たしかに、都市部の一部に物質的発展はもたられました。でも、恩恵を受けたのは、土地供与やその他の特権を与えられた中国人移民だけで、チベット人の福祉は向上しなかったのです。また、中国のやり方は、チベットの都市部と農村部に、深刻な不均衡をもたらしました。

中国共産政権の占領が長期化するなか、チベット人は開発の恩恵を均等に受けられないのみならず、自由な表現、宗教信仰、独自の文化を維持する自由を奪われています。旅行者の皆さんは、チベットに行くと、自らの人権も否定されていることをすぐに実感されるでしょう。チベット人権民主センター(TCHRD)は、チベットの政治状況をあまり知らないか、全く知らない旅行者への指針 となるよう、また、状況をすでにご存知の方にも補完情報を提供するために、この状況説明書を作成しました。

旅行者は、チベットにとって大切な役割を担っています。近年、旅行者のなかには、チベット本土の一次情報を提供することで、国際社会にチベット支援の必要性を呼びかける人たちがいます。そうすることで、人権侵害を止めさせるよう、中国に圧力をかけることができるのです。チベット人権民主センターは、この説明書を読んだ皆さんが、チベットの状況を意識的に観察し、そして帰国後に、経験されたことを私たちや、それ以外の人々に伝えてくださることを望みます。

チベット訪問前にするべき最も大切なことは、その政治的状況を多少なりとも理解しておくことです。状況は刻々と変化しています。旅行者に対するルール・規制は事前通知が殆どないまま、恣意的に変更されます。意識的に観察することで、チベットに住むチベット人の日常の現実を理解できます。また、この説明書を読むことで、中国当局が見せようとしている表層的な現実の裏を見るにはどうしたらよいかが分かります。中国政府はこう言っています――「チベットの親中プロパガンダは、外国人にやってもらうのがよい。われわれ以上に上手にやるから」。この中国政府の態度からしても、チベットの真実の姿を見ることがそれほど容易くないとお分かりになるでしょう。

出発前に情報を仕入れてください。チベットの政治社会状況について書かれたもの、および、旅行ガイドの両方を読んでおいて下さい。貴重で興味深い情報を提供する、さまざまな良書やウェブサイトがあります。ダライ・ラマ法王やダライ・ラマ法王関連イベントの写真やビデオ、この小冊子や政治的な読み物、その他の、デリケートな書物を持ってチベットを旅行しては絶対、いけません。そうすることで、あなたに厄介が起きるだけではなく、あなたと接触した地元の人々にもトラブルが起きることになります!

この説明書における「チベット」の定義は、ウ・ツァン、カム、そしてアムドの三地方を含む伝統的なチベットの地域のことを指します。1951年にチベットを併合したあと、中国はチベットを七つの行政地域に分割し、最大の地域を「チベット自治区(TAR)」としました。今日、中国政府がチベットと言えば、チベット自治区を指しますが、それは本来のチベット平原の半分以下のサイズなのです。チベット自治区以外のチベット人の地域は、中国のいくつかの省に併合されました。これは、支配を有利に行うためになされたものです。アムドの大部分は、青海省に併合され、一部は、甘粛省と四川省にまたがっています。かつてのカム東部の公国群の大半は、四川省と雲南省に併合され、残りの小さな部分が青海省とチベット自治区に併合さ� ��ました。残りの地域であるウ・ツァンとカム西部(そしてチベット西部)を、中国当局は、正規にチベット自治区の72の郡と定めています。中国政府がチベットと言うときには、チベット自治区のことだけを指しているのです。しかし、本冊子では、チベット人が自分の国として認識している地域全体のことをチベットと呼びます。

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チベットを旅行するべきか?

中国は、チベット観光を大変な勢いで推し進めています。また、共産党政権の恩恵を受けたチベット―というイメージを広めようとしています。チベット旅行は、中国の言っていることが本当かどうか、また、中国に自国を占領されたチベット人に何が起きているのかを確かめる良い機会です。また、チベットの現実を国際社会に知ってもらう助けにもなりえる機会です。

多くの旅行者の報告は、中国の厳しい規制にしばしば制約を受けます。中国の威嚇に恐怖を感じると言った人もいます。その結果、多くの人々は、チベットを訪問することをためらっています。また、チベットでお金を落としても、所詮は中国政府を利するだけだから、チベット旅行はモラルに反すると考える人もいます。たしかに、移動やビザ取得にかかる費用が中国政府の財布に入ることを避けることはできませんが、注意深く、賢明に残りのお金を遣うことで、中国政府が儲けすぎないようにすることが出来ます。

外部情報へのアクセスが厳しく規制されているので、多くのチベット人は、国際社会が、どれくらいチベット問題に興味を持ち、また、インドのチベット亡命政権を支持しているのかを知らないでいます。こうした情報が、注意深い旅行者によって、賢明なやり方で伝えられれば、チベット人のモラル向上に多いに役立ちます。

何十年にもわたり、中国人は、チベット人に、その文化、宗教、言語は価値がないと思わせようとしてきました。しかし、今日、チベット人は、外国人が遠方から多大なコストをかけて自分たちの聖地を訪問し、その文化や言語に関心を示すシーンを目撃しています。このことは、チベット人に、自らの文化の価値を再認識し、それを守ろうとする気持ちを呼び起こすかもしれません。

チベット人は友好的で、明るい性格の民族です。ですから、外国人のなかには、チベット人は現在の状況に満足していて、自由のための闘争や、ダライ・ラマ法王に対する信奉は捨ててしまったと考える人もいます。それが本当かどうかを判断する良い方法は、ラサで毎週水曜日に祈りを捧げ、香を焚く儀式に参加する多数のチベット人を観察することです。チベットの占星術では、水曜日はダライ・ラマ法王の長寿を祈る特別の日です。とりわけ、ダライ・ラマ法王の誕生日(西暦で7月6日)を祝うことが1997年に禁止されて以来、チベット人は、監視の強化にも関わらず、水曜日の祈祷会に大挙して参加するようになりました。表面的にはチベット仏教の信仰は自由であるように見えます。しかし、騙されてはいけません。未だに厳し� ��宗教弾圧が行われています。

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どのように振舞うべきか?

近年、旅行者のあいだで「世界の屋根」チベットの人気が非常に高まっています。その美しい僧院、雪を抱く山や谷、チベット人の自然に即した生活様式を見るために、世界中から旅行者が大挙して訪れています。

一般に、チベット人は自然に従ったシンプルな生活をしており、物質主義とは一線を画しています。チベット人の生活は古来より宗教に根ざしており、チベット人のほぼ全員が、全ての生き物は平等と考える仏教を信奉しています。

地元のチベット人は旅行者を歓迎し、チベット文化や、その他チベット人特有のテーマに対して興味を示す人には率直に話をしてくれるはずです。村を訪問して村人に相談すれば、都会で泊まるよりもずっと安い値段の宿を紹介してくれるでしょう。貧しい村に宿泊することで、こうした人々の生活を経済的に支えることにもなります。

チベットの村で、衛生に対する知識を無償で村人に教えることで、彼らを大いに助けることができます。また応急手当の方法、事故に対する対処法等の情報も、感謝されるでしょう。

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チベット人に話しかける

チベット人と日常会話を交わせば、彼らがオープンで友好的な人々だということが分かるでしょう。しかし、出国後、その情報を外の世界に広めるかもしれない外国人と、政治的話題について話したり、人権に関する情報を提供することは、チベット人にとってとても危険なことです。ツアーガイドや一般のチベット人と政治的な会話をしようとしないでください。このような情報を無理やり手に入れようとすると、チベット人を拘置、逮捕、懲役などの危険にさらします。あるいは、チベット人が自分の方から、人権状況について話してきたり、あなたとデリケートな話題を語りたがるかもしれません。そうした場合も、彼らを煽るようなことはしないで下さい。チベット人の中には、明らかに危険だと知っていても、危険を顧みず、� ��えて行動しようとする人がいます。たとえチベット人が自分からそうしたとしても、彼らがあなたと接触することによって直面するリスクを過小評価しないで下さい。

チベット人と話をするとき、隠しカメラや盗聴の危険がないかどうか、いつも確認して下さい。たとえば、スノー・ランド・ホテルの向い側にある有名な喫茶店は、地元では、人ごみの中にスパイが混ざり込んでいることで有名です。また、レストランで一人で食事をしている客もスパイかもしれません。ディスコやカラオケにたむろしている人々の中にもスパイがいます。チベット人の家庭に欧米人が泊まった場合、隣人がそのことを当局に報告することがあります。

チベット人が自分の方から語り始めたり、あなたに情報を外部に伝えるよう頼んできた場合、あらゆる角度から慎重に状況を観察して判断してください。信頼できる筋からの情報は、チベット人権民主センターのような組織に役立ちますが、同時に大きなリスクを伴います。語られた内容を事後的にノートに書き留めることも可能ですが、拘置され、身の回り品が調べられ、書いた内容が閲覧されるという、ワーストシナリオを常に念頭に置いてください。情報源の身元を明かさないよう、名前は伏せ、他人が読んでもすぐには情報の内容が分からないような書き方をし、出国してから改めて正確な情報を再構築してください。詳細な内容は、ラップトップPCから、もしくは帰国後にチベット人権民主センターに送ってください(Eメー ルアドレスは、この小冊子の最後に記載されています)。

亡命チベット人のコミュニティのことはあまり知られていません。チベットを訪問する前に、ぜひ、インドのダラムサラの亡命コミュニティを最低でも一つは訪問してください。ダラムサラは、ダライ・ラマ法王とチベット亡命政権、亡命チベット人、そして、そこで生まれたチベット人にとって、第二の故郷です。インドに亡命してきたチベット人と話をすることで、彼らがどうして故郷を逃れてきた理由や、亡命生活の様子などを学ぶことが出来るでしょう。

しかし、チベット本土では、そうした話を現地の人とすば、あなたがその人を大きな危険に陥れることを忘れないで下さい。最悪の場合、あなた自身が拘置と尋問の対象になる可能性があります。そして、そのチベット人は、中国当局による拷問と投獄の対象になりかねません。

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写真について

写真は、チベットに関するさまざまな情報を提供します。話をすることが危険な国において、また、言葉の壁があるとき、写真は言葉を必要としない貴重な情報です。非日常的な出来事、暴動などは、危険だが絶好のシャッターチャンスです。しかし、日常的な光景の写真も、それと同じくらい重要です。チベット全域での人々の生活の様子を、そして中国人がもたらした変化をカメラに収めてください。もちろん、「詮索好きな観光客」は歓迎されないということをいつも念頭に置いてください。中国当局は、あなたに思う存分、写真を撮らせておいて、出国の際にフィルムやメモリーカードを丸ごと取り上げてしまうかもしれません。だから、くれぐれも目立たないように行動してください。

ラサをはじめとするチベットの都市における、娼館と売春婦の数に注意を払ってください。売春問題は、孤立した問題ではなく、社会的文脈で捉えられるべき問題です。中国当局が売春を放置する裏の政治的な意図は、ダライ・ラマ法王の影響を一掃し、チベット人を道徳的に堕落させることにあるのです。(行政区としての)ラサには約2,000の娼館があり、10,000人の売春婦がいるといわれています。そうした娼館が、どれも、聖なるコーラ(周遊行脚道)に面しているのは、故意のものです。

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公安

中国は、チベット中に公安ネットワークを張り巡らせていますが、もっとも緊密なネットワークは、チベット自治区内にあります。公安システムのうち、最も目立つものは、ラサのポタラ宮殿、ジョカン寺、バルコル(八角街)道などに設置されたカメラと、制服姿の警官、軍人などです。しかし、これらは監視システムの氷山の一角、ほんの表層に過ぎません。呑気で幸運な訪問者は、自分がどれほど厳しい監視の下に置かれていたか、気がつかないまま旅行を終えるでしょう。しかし、観光客が、たとえ善意に基づいたとしても、不注意な行動をとれば、チベット人を深刻な危険にさらすことになります。

制服の警官に加え、膨大な数の私服警官がおり、それらがスパイの大きなネットワークと関係を持っています。デプン僧院、セラ僧院といった代表的な観光地では、あなたに近づいて政治談議を語り始める人や、ダライ・ラマ法王の写真をせがむ人がいます。

チベットからの国際電話は全て北京経由となっており、録音、監視されています。チベットに言論の自由はありません。また、Eメールは、トリガーワードによってフィルターがかけられており、特定のウェブサイトにはアクセスが出来ません。アクセスできないからと言って、何度もトライすると、あなたが使っているインターネット・カフェとあなた自身が当局の関心を捉えることになります。

チベットから政治的なことをEメールで発信する場合、その内容も検閲対象です。中国当局はパケット・スニファーを使って、Eメールを含むインターネット取引を検閲し、デリケートな用語が使われている文章をブロックするようです。ヤフーですら、中国政府とウェブ検閲についての協約を結んでいます。インターネット・カフェを経営し、生計を立てている人たちのことを思いやってください。また、その経営者がチベット人だった場合、中国の検閲に違反したときの懲罰は、いっそう厳しいものになるということを忘れないで下さい。「チベット」で行うあらゆる検索、全ての国際的なチベット・サイト、米CNN、英BBC、リポーターズ・サン・フロンティア(RSF)、豪ABCなどのサイトは全てアクセス禁止となっています。

以前は、中国の公安は、部署によって違う色の制服を着ていましたが、2001年5月から青に統一されました。その結果、八角街・バルコル・パトロール(バルコル内のパトロール、清掃、秩序維持を担当する、中国当局に雇われた失業中の若者、浮浪者)、PAP(人民軍警察。暴動を鎮圧するために特殊な訓練を受けている)、PSD(公安局。チベット自治区における刑事裁判を管轄)は、腕章の漢字による記載でしか識別できなくなりました。その全てはラサで活動しており、それ以外にもPSDの私服警官がいます。

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宿泊施設

たとえ招かれても、チベット自治区内でチベット人の家庭に泊まることは禁じられており、これに違反すると招いた家庭は深刻な報復の対象となります。たとえ、正式に認可されている場所でも、家族は当局の監視下に入ります。昨今のチベットの政治状況に鑑みると、手紙、電話、Eメール、ファックスは検閲の対象となり、監視されていると考えた方が良いでしょう。あなたは、常に監視されているのです。

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言語

挨拶の言葉、「タシ・デレ」をチベット語で言うだけで、チベットの人々は、非常に喜びます。そうすることで、彼らの言語と文化に対する尊重の念を示せるのみならず、あなたが、平均的な観光客と違って、チベットとそこに住む人々に関心を持っているのだということを示せます。また、友情の扉を開くきっかけにもなります。チベット人の多くは、好意を示す外国人相手に英会話の練習をしたいと思っています。そうしたチベット人と、政治的にデリケートな内容をはずして、会話を交わすことが出来ます。これら政治を話さずとも、日常会話は、彼らの置かれている状況を学び、理解するための大きな助けになります。たとえば、家庭での生活や、日常的な生活の方法――具体的には学校のこと、仕事のこと、税金のこと、医療� ��こと、人生観。彼らが語らないことから、多くのことを学ぶことができます。チベット語の単語を知っているなら、現地の中国人にもチベット語で話しかけてください。

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服装

季節に合った、ゆったりとして丈夫で着心地の良い服を着て旅行して下さい。ラサやシガツェのような大都市を別にしたら、未だに1980年代の流行から卒業できていないチベットに、最新流行の服はふさわしくありません!北京、上海、そして香港から来る女性旅行客は、身体にぴったりした、露出度の高い服装をしていますが、あなたもそのような格好をしていたら、無知な観光客と思われるでしょう。依然としてチベットでは、礼儀正しい、きちんとした服がスタンダードです。またチベットの自然条件を考えれば、機能性、実用性が、何より一番、服装に求められるものです。チベットでは、ディスコを除いて、ドレスアップするナイトライフは殆どありません。チベット人の大半は、露出度の高い肉体よりも、彼らの感受性が尊重 されることを評価するでしょう。

チベット様式の服を着るとチベット人は喜びます。チベット語を話すこと同じく、そうすることで、彼らの文化を興味深く価値があると思っていると伝えることが出来るのです。簡単なチベット様式のシャツを着るだけでそれを伝えられます。しかし、外国人がチベットの伝統的な正装をすると、チベット人からは喜ばれるものの、中国当局の望まぬ関心も呼ぶことになります。もちろん、ポタラ広場の「観光客がチベット人の服を着て写真を撮るゾーン」で着るのであれば、その限りではありませんが!

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野生動物保護支持について

チベットの絶滅寸前の動物を保護するため、野生動物を使った製品を買わないで下さい。もし、お店やマーケットで絶滅種の動物の皮を使った製品を見たら、写真を撮って、チベット民主人権センターに送ってください。希少な動物の皮を取引することは中国の国内法、および国際法違反ですが、この分野に関しては中国は、法を遵守させるための努力を殆どしていません。


訓練生は何ですか

動物の皮は、祭礼で用いる伝統的な衣服の装飾品としてチベット人も使ってきました。しかし、2006年1月、インドのアムラヴァーティでの法話会で、ダライ・ラマ法王は野生動物の保護の重要性と、動物全般に対する慈悲の重要性を強調し、動物の皮を着ることを「宗教慣行に反する行為」として糾弾しました。ダライ・ラマ法王は、動物の皮を取り引きし、その毛皮を着用することは、チベットで減少傾向にある野生動物に壊滅的影響を与えるとしており、また、虎のような危機にさらされている動物を商売の対象にすることは「恥ずべき」行為であると言っています。ダライ・ラマ法王のスピーチを受けて、チベットのチベット人たちは、ただちに野生動物の皮と毛皮を使うことを止めました。すでに捕獲された多くの動物の皮を、� �人的に、あるいは集団的な儀式で焼却処分することで、絶滅の危機に瀕している野生動物を保護し、動物の皮の売買を停止する姿勢に連帯感を示しました。

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健康と医療

もしチベット旅行中に特別な治療や医療機器が必要であれば、旅行代理店に、あらかじめ、あなたの心身の健康状態を伝えてください。それを怠った場合、旅行代理店は費用の返却なしに、あなたの旅行をキャンセルする可能性があります。健康に問題がある場合は、必要なカルテ・処方箋、および医療器具を旅行に携行する必要があります。旅行予約の後に健康を害したら、ただちにそれを旅行代理店に知らせる必要があります。

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歴史的背景

チベットの有史は紀元前127年に始まります。チベットの最初の王、ニャティ・ツェンポが戴冠した年です。ソンツェン・ガンポ王の統治の時代、そして紀元7世紀から9世紀にかけて、チベット帝国は絶頂期を迎え、その領土は今日の中国や中央アジア諸国にまで広がりました。チベット軍は、763年、ティソン・デツェン大王の時代に中国の首都長安を占領します。821年から822年にかけて、チベット皇帝ティ・ラルパ・チェンと、唐の穆宗帝とのあいだで協定が結ばれました。この頃、仏教がチベットに伝来し、国教となりました。チベットは、アジアの二大国、中国とインドの間にまたがる2,500万平方キロメートルの土地を占有していたのです。

1642年、ダライ・ラマ五世がチベットの祭政の長となり、「ガンデン・ポタン」と呼ばれる統治システムを打ち立てました。1653年に、ダライ・ラマ法王は満州出身の清国皇帝が新たな治世を拓いた中国の首都を公式訪問します。清国の順治帝はダライ・ラマ法王を迎えるため、帝都北京から四日間かけて近郊に旅をし、ダライ・ラマ法王を独立主権国家の元首として丁重に扱いました。

ダライ・ラマ十三世は、1910年に清国が彼を退位させようとするにいたり、清国との関係を絶ちました。1911年に孫文が率いる国民党が清国を打倒。混乱のなかで、ダライ・ラマ十三世は、1913年2月14日に改めてチベットの独立を宣言します。

1949年に国民党から権力を奪取した中国共産党は、人民解放軍(PLA)にとって、残された最後の任務は「チベットを解放することである」と規定しました。共産党の上層部はすでに、中華人民共和国(PRC)の枠組みのなかで、「国内の少数民族」と見なされる勢力をどのように自らのシステムに取り込んでいくかを考えていました。しかし、共産党のリーダーたちは、同時にチベットに自らの影響力は殆ど及んでいないことを自覚していました。

1913年以降、あらゆる観点から見て、チベットは独立国家でした。内政・外交いずれにおいて主権を行使しており、自らの政府、通貨、郵便制度、言語、そして宗教を持っていました。不運なことに、脅威は大変悪いタイミングでやってきました。元首であるダライ・ラマ法王はまだ14歳の少年で、権威を十分に打ち立てるに至っていなかったのです。

チベット軍と人民解放軍の最初の軍事衝突は1950年5月の終わりに起きました。7月29日、中国国際放送で、劉伯承将軍は、「南西軍政委員会の喫緊の任務はチベットを解放することであり、人民解放軍は攻撃を開始する」と言明しました。それとともに、待機していた四万人の人民解放軍兵士がラサに行軍し、チベット人は共産主義者の侵入を阻止するすべもありませんでした。その後、中国首脳との交渉のためにチベットの代表団が北京に赴きます。1951年5月23日、代表団は、チベット独立の要求の大半が無視された、「十七ヶ条条約」に強制的に調印させられました。この条約は今日まで問題となっています。

1956年夏には、押し付けられた改革に対する猛烈な抵抗が起き、中国は東部チベットへの侵攻を始めました。1959年はじめには、抵抗はラサに広がり、人民解放軍に緊張が走りました。同年、チベットにおける中国側の代表者、譚将軍がダライ・ラマ法王を中国の軍事キャンプで開催されるオペラ観劇に誘ったことから、有名なチベット蜂起が起きました。法王が招待された事実が明らかになったとき、オペラ観劇はダライ・ラマ法王を誘拐する口実に過ぎないとして、ラサの民衆数千人が結集し、法王が中国側のキャンプに行くのを止めようとしました。この行動により数千人が命を失いました。1959年3月17日、ダライ・ラマ法王はチベットを離れ、3月23日、中国はポタラ宮殿に五星紅旗を掲揚しました。ダライ・ラマ法王は1959年6月20日に インドに亡命後、初の記者会見を開き、十七ヶ条条約を破棄しました。

1959年の蜂起の結果、多くのチベット人の命が、処刑、投獄、あるいは監獄内での飢餓などで奪われました。中国政府の極秘資料によれば、1959年3月から1960年10月にかけて87万人のチベット人が殺戮されました。その時期は、毛沢東が農業生産を鉄鋼生産に代替し、人民公社システムの導入を図った「大躍進」の時期でもあり、その政策の失敗により多くの命が奪われました。チベット人にとって第二の受難の時期は、文化大革命(1966年〜76年)です。これはチベットでは1979年まで続いたと言われています。毛沢東が推進したキャンペーンは、古い文化、思想、慣習、および伝統の「四旧悪」を放逐することにありました。第三の受難期は、1987年から1990年にかけてで、ラサで起きた大規模デモを契機に13ヶ月間、軍政が敷かれました。この 時期に、チベット独立を主張した約100人のチベット人が中国警察によって射殺されました。そのほかにも数千人が投獄されました。

1988年にダライ・ラマ法王は、チベット問題の解決を図るため大きな妥協をし、五項目の和平提案を行いました。そして戦いは今日に至るまで続いています。

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チベットの現状の裏にあるもの

中国政府の統治手法は透明性が低く秘密が多いため、チベットでの人権状況を正確に評価するのは容易ではありません。中国政府のチベットにおける人権政策は矛盾に満ちています。中央政府が策定するチベット政策は、綱領のかたちで示されますが、その実際の運用は、地方政府の裁量に任されています。その結果、どの政策がどの程度まで施行されるかは、チベットの諸地域のなかでも大きく違うのです。チベット人全体の状況が把握できる代表的な地域は存在せず、チベットの生活条件や政策の施行状況について旅行者が行う報告は、その人がどの地域を旅行したかによってバラバラです。

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差別

中国は、「文明的な」中国人が「後進的で野蛮な」チベット人を「解放した」として、チベットの侵略を正当化しています。こうした考え方は民族的偏見に満ちた支配主義的なものですが、その傾向は近年、ますます強まっています。中国人はチベット人を差別し、多くの場合、監獄での拷問や学童の待遇などで人間以下の扱いをしています。官吏登用や政策といった行政レベルから中国人移民の貧しいチベット人に対する態度といった日常レベルまで、社会のあらゆる局面で差別が一般化しています。その結果、チベット人一人一人の生命や将来が脅かされているだけではなく、チベット民族そのものが危機的状況におかれています。

代表的な差別として、中国語がチベットの公用語とされていることがあります。政府や公的施設ではどこでも中国語が使われています。公務員になれるか否かは、中国語の能力にかかっているため、チベット人は不利な状況におかれています。全ての標識、公的文書は漢字で書かられています。チベット自治区では、漢字とチベット文字の併用表記が義務付けらていますが、漢字に比べてチベット文字の表記はごく小さいのです。また、そこで使われているチベット語は、中国語から直訳されたもので、正しいチベット語ではありません。間違った言葉遣いが公的文書に記されているほどに、チベット民族の言語は貶められています。

チベットを訪問して、中国人移住者、および中国人観光客のチベット人に対する態度、チベット人と中国人のあいだの社会的な関係を観察してください。中国人はチベット人に話しかけるとき、何語で話しかけていますか?

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移住

中国政府の長期的な政策目標の一つは、少数民族の居住地域に中国人を積極的に移住させることで、政府に反抗的な民族を人口の観点からコントロールすることです。これはチベットの都市で顕著であり、チベット人は実質的に中国人と同等の立場で社会参加できないようになっています。中国人はもともと優越意識を持って移住してくることもあり、チベット人はチベット人であるというだけで二級市民の扱いを受けています。

こうした移住政策は、もっぱら中国人の利益を念頭におき、チベット人を無視してチベットを「発展」させようとする考えに基づいています。

チベットでも失業者が増えているにも関わらず、中国人の労働者は、さまざまな優遇措置を受けてチベットにやってきます。チベットの住宅、教育、医療における優遇施策は、基本的に、こうした移住者を対象に策定されています。

中国人が大挙してチベットに移住すると、中国の文化、生活スタイルが同時に持ち込まれます。数にモノを言わせるやり方と、差別的慣行により、チベットの文化や価値観、環境、野生動物などは脅威に晒されており、チベット人の基本的人権は守られにくくなっています。中国人の移住は都市部に限られているので、都市部と農村の両方を訪れると違ったチベットの印象が得られるでしょう。都市部でも、大きな観光スポットばかりではなく、ぜひ、街角の人々の日常生活をのぞいてみてください。

チベット人と中国人は同じ地域に住んでいるでしょうか、それとも、異なる居住区に分かれて暮らしていますか? 居住区が分かれているとしたら、二つの居住区の施設や生活レベルは同じでしょうか? チベット人と中国人がお互いにどのような態度で接し合っているか、観察してください。中国人移民がチベットにやってきた動機は何でしょう? どれくらい前に来たのでしょう? チベットに住むことで、彼らはどんなメリットを得るのでしょうか? 今後、どのくらいチベットに住むつもりでしょうか? 彼らのチベットとチベット人に対する態度は、一般的に言って、どのようなものでしょうか?

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雇用と経済生活

チベット人のあいだで、失業は慢性的に増える傾向にあります。また、雇用差別はひどいものです。中国人移民は、移住に際して優遇措置が与えられているだけではなく、労働条件、賃金も、民族間で大きく異なっています。多くの場合、チベット人は中国人より、危険で悪い条件の仕事にしか就けません。チベット人と中国人が同等の職種に就いた場合、中国人は、少なくともチベット人の二倍の賃金を得ます。

■写真左:従業員10名募集 〔日当〕中国人50元 / チベット人30元

強制的な土地収用、フェンスでの土地囲いこみ、そして家畜数の減少割り当てによって、農村に住むチベット人の自活は困難になっています。大半のチベット人の収入は、国際機関が定義する貧困ラインを割っています。収入が少ない結果、教育、雇用、医療、食料、衣料、そして住宅への十分なアクセスが得られないでいます。

雇用における差別は、必ずしも中国人移民が民族的に優遇されているということだけではなく、中国語が採用の条件になっていることが致命的です。チベット人は、チベット人だというだけで不利です。職を得るためには、買収やコネを使うこと(中国語で言うところの「関係――グアンシー」)が必要となってきますが、一般的なチベット人は普通、そのような手段を持ち合わせていません。

中国政府のプロパガンダは、「チベットの発展」を強調しています。しかし、中国が推進するインフラ整備、大建設工事や資源採掘プロジェクトから、チベット人が利益を蒙ることはないのです。チベットの失業率が高いにもかかわらず、こうしたプロジェクトに必要な労働者は中国本土から動員されます。中国人の流入は、チベットでチベット人が少数派になる傾向に拍車をかけているのです。

インフラ整備で利益を蒙るのは中国人移民で、チベット人ではありません。たとえばチベット人は、住宅割り当てで優先権がないだけではなく、移民向けの中国式のアパート建設用の敷地確保のために、住居から追い立てられているのです。立ち退きにかかる補償は、全くないか、あったとしてもごく小さなものです。いずれにしてもチベット人には失った資産を代替する選択肢がほとんど与えられていません。

中国政府はまた、持続可能な開発に重点を置いていません。彼らは天然資源が欲しいだけなのです。生活様式を破壊された多くのチベット人にとって、家計を維持する唯一の方法は、小さな自営業を営むことです。

チベット人には、社会的上昇や、職業訓練の機会は与えられているのでしょうか? 彼らはどのように職を得ているのでしょう? チベット人のコミュニティで、どのくらいの人が失業していますか? 失業者には、どのような雇用機会があるのでしょうか? 彼らは毎日、仕事をしないでどのように生活しているのでしょうか?

たとえば、観光業。飲食店や売店のオーナー、従業員の民族は? 主要な観光スポットで働いているのは誰でしょう?ツアーガイドは、チベット人、それとも、中国人でしょうか?チベットの伝統的な民芸品やお土産品を売っているのは誰ですか?チベット人の店舗と中国人の店舗は同じ立地条件ですか?

中国は、チベット人の生活が徐々に改善していると主張しています。しかし住居の質、着ている服、外観、健康状態を見れば、チベット人がどのような生活状況に置かれているのか分かります。チベット人に、生活水準のことを質問してください。彼らは、生活は最近、改善したと考えているでしょうか? ギリギリの生活のなかで、一番、困難なことは何でしょう? 旱魃や寒冬のとき、中国政府は援助の手を差し伸べたでしょうか? チベット人は、自分の家を所有しているでしょうか? 開発プロジェクトによって住居や土地を失っていませんか? 彼らは補償を受けているでしょうか? 地元の開発プロジェクトにチベット人が雇用されていたことはあるでしょうか? 現実的に言って、チベット人は、チベットに今後作られる� ��しい施設を利用することが可能でしょうか? 彼らはこうしたプロジェクトや、プロジェクトに付随するインフラ整備から恩恵を受けると感じていますか?

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ツアー・ガイド

2007年には国内外から372万人の観光客がチベット自治区を訪問しました。このうち、10パーセントが中国国外から来た外国人で、その数は前年比64%増加しました。これら観光客の大半が、チベットを観光するにあたり、新しく完成した青蔵鉄道を利用しました。

2007年1月、中国政府はツアーガイドに公式の身分証明書を持たせるようにし、証明書なしにはガイド活動は出来ないようになりました。こうした証明書を発行することで、ガイド業界からチベット人を駆逐し、中国人移民で代替する方針です。中国政府は、インド来訪歴があり、英語が流暢で、かつチベットの文化、歴史、言語、そして仏教に対する知識の深いチベット人ガイドを疑惑の目で見ています。証明書を発行することで、徐々にこうしたチベット人ガイドを中国人ガイドと入れ替えようとするのは、そのためです。

生き残ったチベット人ツアーガイドは、常に中国当局からの監視の目にさらされています。彼らは、政治や、民族主義について外国人と話すことを禁じられています。中国政府の見解に沿った公式プロパガンダを繰り返すことを期待され、そこから逸脱した際には仕事を失うことになります。ですから、ガイドや運転手の前では、政治のことや潜在的に危険を伴う話題は避けるに越したことはありません。たとえ、彼らはあなたの会話に加わっていなかったとしても、中国当局からツアーが終わるごとに質問を受けます。盗み聞きした内容が少なければ少ないほど、彼らの安全は守られます。

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教育

中国人移民が流入し、チベットの文化と言語の純粋性が失われつつあるなか、教育は、チベットの文化遺産を守るために決定的に重要です。 中国政府は、学校建設によって、チベットの教育環境は大きく改善したと言っています。しかし、中国が建てた学校は都市部に偏在しており、中国人子女と、官公庁で働く公務員の子女の教育を対象としています。多くのチベット人は、子女を学校にやることが出来ず、民族全体としての教育レベルは低いものに留まっています。チベット人にとって、学校は家から遠すぎ、学費は高すぎるうえ、そこでは中国人から差別を受けます。もう一つの大きな問題は、教育に中国語が使われることです。中国語が出来ないチベット人の子どもは、教育の機会がなかっただけなのに、知能のレベルが低いと見なされるのです。高等教育が受けられるかどうか、良い仕事に就けるかどうかは、中国語能力にかかっているため、中国語を母国語とする人� ��と比べると、チベット人は出発点からハンデを負っているのです。中国語と、中国文化に偏った学校での教育内容は、多くのチベット人から教育機会を奪っているのみならず、チベット文化の教育を不可能にしています。

中国の教育政策の結果、チベット語を話せないチベット人が増えています。ある者は、チベット語ができても将来何の役にも立たない、と考えていますし、またある者は、チベット語を話すことは出来るものの、読み書きを学ぶ機会が全く与えられませんでした。伝統的にチベット文化の教育を担う主要な機関であった僧院ですら、チベット語が読めない僧侶が増えています。

あなたがたとえ、チベット語が全く分からなくても、他人が話しているのを聞いて、それが中国語かチベット語かの区別は出来るでしょう。チベット人と中国人の、そしてチベット人同士の商談で一番良く使われている言葉は何でしょう? チベット人が、人付き合いに使う言葉、書類を書くとき、個人的な手紙を書くとき、使う言葉は何でしょう?  チベット人が家で話す言葉は? レストランでは? 英語を話すチベット人はどのくらいいますか?

チベット人の村からどのくらい離れたところに学校があるか、確認してみてください。学校を訪問する機会があれば、どのような科目がどんな言語で教えられているか、質問してみてください。教師、そして生徒の、チベット人と中国人の割合はどうなっているでしょう? チベット人は学費、その他の費用をどのくらい払って子どもを学校にやっていますか? 教育の内容と質に満足していますか? 試験において、何らかの差別を受けたことはあるでしょうか? 中国人の教師は、チベット人の子どもたちをどのように扱っていますか? チベット人の子どもたちは、中国人の子どもたちとうまくやっていますか? チベット人の子どもたちには、中国人の友達がいますか? チベット人の子どもは学校で、チベットのお祭りを祝っ� ��り、チベット仏教のしきたりを守っていますか? もし、全く学校に行っていないチベット人の子どもたちがいるとしたら、それはなぜですか?

都市部と農村部の学校、そして、主に中国人を対象とした学校と、チベット人を対象とした学校施設の立派さ加減を比べてみて下さい。チベット人に、教育を受けさせるためにインドに送った子どもがいるかどうか、聞いて下さい。そうだとしたら、どうして彼らは子どもをインドに送ったのか、聞いて下さい。その行為により、彼らは中国当局に睨まれているでしょうか?

大人のチベット人に、読み書きが出来るか、聞いて下さい。出来るとしたら、それは何語の読み書きですか? 彼らが若いとき、どんな教育を受けたか、それと比べて、今日のチベットで教育はどのように変わったか、聞いて下さい。

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ドイツの歴史うつ病

宗教

仏教は、昔からチベットの主要な宗教でした。今日、チベット仏教に対する最大の脅威は、中国当局が推進している無神論に則った政策です。仏教は、チベット民族主義と直結していると見なされているため、僧侶や尼僧は厳しい制約を課され、人権侵害の対象となっています。中国当局の強硬姿勢は、チベットで仏教と反中国的分子を共に粉砕することを目的としています。

■写真左:2008年3月28日ンガパ・キルティ僧院:中央のダライ・ラマ法王の写真は中国軍によって破壊され、パンチェン・ラマ師の写真が残っている

チベットでは、僧院が過去何年にもわたり破壊されてきたことに加え、今日も宗教組織には厳しい制約が課され、完全な形では機能できないようにされています。僧院、尼僧院に在籍する僧侶、尼僧の総数は、厳しく管理されています。僧院に在籍できるのは、18歳から55歳までの成人に限られていることから、高い修行を積んだ高齢のラマが、若い僧侶に教えを授けるという、チベットの伝統的な教育サイクルが破壊されています。所管の「民主管理委員会」が、教育の内容と量、および、どのような宗教儀式が行われるのかを管理しています。「厳打(中国の犯罪撲滅運動)キャンペーン」傘下のワーキングチームが、「愛国的再教育」の授業を強要し、僧院コミュニティを共産主義の理想と党の方針に沿って教化し、政治的異端者を 弾圧しています。僧侶、尼僧は、ダライ・ラマ信仰とチベット愛国主義について、自己批判や告発をさせられています。教義からの逸脱者、反抗的な分子は僧院に留まることを許されず、逮捕、投獄がしばしば起きます。

2007年9月、中国政府は高僧の転生を認証する、数百年の伝統を持ったチベットのシステムに終止符を打つことで、チベット仏教に対する締め付けをさらに強化しています。新しい措置によれば、生まれ変わりとされる人物の正統性は中国共産党が決定し、「政府の承認がない所謂、転生した活仏は、非合法かつ無効である」とされます。

観光は、仏教の生き残りのための唯一の手段となっています。中国政府は、チベットの僧院に商業的価値があることを認めているからです。最近、いくつかの僧院や尼僧院の再建が認められるようになったものの、決して善意に基づいたものではありません。在家の信仰も、新しい政策や規制によって弾圧が厳しくなってきています。政府系機関で働くチベット人は規制の対象となっており、伝統的な宗教祭祀が禁じられています。

全てのチベット人に、ダライ・ラマ法王の写真の携行が禁止されています。多くのチベット人、とくに、僧院や尼僧院のチベット人は、あなたにダライ・ラマ法王の写真をせがむかもしれません。禁止されてもなお、ダライ・ラマ法王の写真は非常に人気があるのです。もし、それをチベット人に渡しているところを当局に見つかったら、あなたは罰金あるいは国外退去の対象となるでしょう。あなたと接触した全てのチベット人は拘置され、尋問され、場合によっては投獄されます。

サガ・ダワ、あるいはダライ・ラマ法王の誕生日といった、特定の宗教行事もまた、程度の差こそあれ、チベット全土で厳しい規制が課されています。僧院、尼僧院を訪問したら、施設やそこで暮らす僧侶、尼僧の全体的な様子を観察するだけではなく、そこにいる学生たちが実際に何をしているかを観察してください。彼らは修行や学習に勤しんでいますか? それとも、単なる寺社の警備や金銭の収受をしているだけでしょうか? 僧侶と尼僧の年齢層と数は? 中国人による侵攻の前後で、その数に変化はあるでしょうか? 新しく入山する僧侶はどのように選抜されますか? 選抜の頻度と規模は? 僧侶や尼僧は、良質の教育を受けていると認識していますか? その「良質」の基準となるのは何でしょう? 「再教育」を受� ��る頻度はどのくらいで、「再教育」とは具体的に、どのようなものでしょうか?

在家信者向けの宗教行事は、地方の僧院や尼僧院ではどのくらいの頻度で行われますか?在家信者の参加の規模はどのくらいですか? こうした宗教行事では、実際にはどのような監視が行われますか? 村で行われる宗教儀式には、何らかの制限は加えられていますか? 村人は屋内に祭壇を持つことは許されていますか? 禁止されたり、制限されている宗教祭祀はありますか? 実際には、どんな制限が課されていますか? 宗教的行為に対する政府の介入を、彼らはどのように感じていますか?

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第十一代パンチェン・ラマ、ゲンドゥン・チューキ・ニマの問題

1995年5月14日、ダライ・ラマ法王は、当時6歳の少年だったゲンドゥン・チューキ・ニマを第十代パンチェン・ラマの生まれ変わりとして認定しました。認定の三日後、少年とその両親は自宅から行方不明になりました。数ヵ月後、中国政府は、別の少年をパンチェン・ラマと認定しました。

■写真:行方不明になったパンチェン・ラマ11世

一年後の1996年5月、中国政府は、第十一代パンチェン・ラマは、「分離主義者による拉致の危険があり、その安全が脅かされていたため」「両親の要請に従って」連行したことを認めました。パンチェン・ラマを認定するダライ・ラマ法王の権威を否認し、ゲンドゥン・チューキ・ニマを転生と認めていないにもかかわらず、中国政府は少年を拘置したことを認めたのです。なぜ、中国政府は普通の少年に過ぎないと見なしている人物の「安全」のためにこのような大仰な措置を採るのか、理解に苦しみます。

1995年11月29日、中国当局が当時6歳の少年ギェンツェン・ノルブを「本当の」パンチェン・ラマとして選定し、1995年12月8日に着座式を行ったとき、チベット全土で大規模な抗議集会が起きました。その結果、ダライ・ラマ法王の写真とともに、ゲンドゥン・チューキ・ニマの写真は禁止され、多くの僧院においてギェンツェン・ノルブの写真が強制的に掲揚されたのでした(安全な妥協案として、今日、多くのチベット人は故第十代パンチェン・ラマ、チューキ・ギャルツェンの写真を代わりに飾っています)。

1997年5月、中国はチベットの僧院、尼僧院で「愛国教育キャンペーン」を行いました。このキャンペーンにおいて、中国は、自らが認定したパンチェン・ラマの認知を促進し、ゲンドゥン・チューキ・ニマを告発しました。チベットからの亡命者や個人旅行者の報告によれば、チベットの主要な僧院や観光ホテルの大半で、中国が認定したパンチェン・ラマの写真が飾られています。

1989年4月25日生まれのゲンドゥン・チューキ・ニマは、世界で最年少の政治囚です。前国連人権担当弁務官をはじめとする高官や国際人道機関がニマ少年の拘置に対して遺憾の意を表明しました。それでも中国は、少年と、その両親に対する外部からの接触を一切、禁じています。2000年10月、ロンドンで開かれた中国との人権対話のなかで、英高官がゲンドゥン・チューキ・ニマの問題を取り上げました。中国側は、写真を提示しましたが、彼が今どこにいるのか、健康なのかといった基本的な点は明らかにしませんでした。このような写真は国際的な懸念を払拭するには全く不適切です。中国の、国際世論を融和しようとする姿勢は見せかけだけのものです。

2001年8月ポーランド議会の代表団がラサを訪問した際に、この問題について中国側に何度か質問したところ、ゲンドゥン・チューキ・ニマは健康で、家族と一緒に暮らしているという回答が返ってきました。代表団は六週間以内にニマ少年の写真をもらう約束をしましたが、その約束は果たされませんでした。度重なる要請にも関わらず、中国政府は少年を外部に晒すことも、また居場所と健康状態に関する証拠品を提出することも拒否しています。

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刑務所

チベットにおけるこれまでの政治囚の大半は、常に僧侶と尼僧でした。チベットの政治囚は、きわめて過酷な条件の下で虐待されています。最初は拘置されるだけだったはずが、告白を求められて日常的に拷問にさらされています。判決が出たあとの受刑者は、看守の要求に従わなかった場合、あるいは、共産党の教化を受け付けなかった場合、さまざまな拷問にさらされます。多くの受刑者は刑務所内の規律に何度か従わなかった場合には、独房に入れて虐待されます。

■写真:ポタラ宮殿の北東郊外にあるドラプチ刑務所

刑務所は、ラサの郊外に散在しています。悪名高いドラプチ刑務所はポタラ宮の北東郊外にあります。新ラサ刑務所は、そのすぐ横にあり、谷を越えた先に、他の4つの刑務所があります。ラサの西郊5キロの場所にはグツァ拘置所があり、受刑者に対する拷問の多くがそこで行われます。東郊にはトリサム刑務所があります。ドラプチ刑務所とその近隣の刑務所は、セラ僧院の西側の棟から見えます。この建物の周辺にはラサ・セメント工場が雑然と広がっています。この工場の経営は大変うまく行っていますが、囚人を労働力として使っていることが成功の要因です。

すべての刑務所において生活条件は厳しく、栄養失調が深刻な問題です。受刑者は日常的に重労働を課され、肉体的にやや軽い労働に従事する受刑者には、しばしば達成不可能な生産量のノルマが課されます。全ての受刑者は年齢や肉体条件によらず、軍隊式の長時間の教練が課されます。ノルマを達成できなかったり、教練をうまくこなせなかった場合、厳しい懲罰が与えられます。方針に少しでも反抗的態度を示したり、チベット愛国的な行動を採った場合、厳しく罰せられます。チベット民主人権センターの推計によれば、2007年に、少なくとも89人のチベット人が刑務所内、あるいは、1987年以降の刑務所内での虐待や拷問を直接の原因として刑務所の外で死亡しています。

戦略的に有利と判断したタイミングで、中国政府は政治囚を釈放しています。こうした釈放は、政治的プロパガンダの目的で行われます。釈放される人々は、そもそも投獄されるいわれのない人々だったのですが、実際には、無実の罪のために投獄され、拷問や虐待に遭っていたのです。

チベット本土、とりわけチベット自治区内では、弾圧、人権侵害が日常化し、国そのものが刑務所のようになっています。移動の制限、言論・集会の自由の欠如、虐待、差別、必要物資の欠如、極度の貧困などがその実態です。

どの地方を旅行していても、刑務所や政治は、チベット人が安心して語ることのできる話題ではありません。ですから、そうした話題をあなたから振らないで下さい。チベット人を大きな危険にさらすことになります。もし、チベット人からそうした話題を始めた場合、注意深く、慎重に行動してください。会話を続けるなら、自分たちがいる場所が安全かどうか確かめること。安全が確認できないのなら、そうした話はストップしてください。

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環境問題

中国政府は、物質主義な考え方に基づいて、自然を人間の欲望を充足させる対象物と捉えています。そうした考えのもと、1959年の占領以来、チベットの天然資源を中国本土に運び、一方、チベットでは中国人移民用の都市建設を急速に進めました。その結果、チベットには深刻な環境問題が起きています。

土地が産み出せる以上のものを収奪しようとする政策の結果として、草原の減少と土壌の質低下が1960年代から70年代にかけて始まりました。水力発電プロジェクトのために川を堰き止めるプランは、十分に練り上げられたものではなかったゆえ、洪水を誘発し、農作物や草原が枯れました。これにより、チベット人の土地や生活手段が失われましたが、何の補償も行われませんでした。

チベットの深い森では大規模伐採が進められ、木材は川下の中国本土に運ばれました。古代から続く原始林も、国営事業の一環として中国人移民労働者の手で伐採されました。チベットの木材は、政府が設定した安値で政府系企業に売られ、鉄道の枕木になったり、鉱山の坑道の支柱になったり、建築資材になったりしました。

1998年の揚子江大洪水の後、中国は木材の伐採を禁止し、むき出しの山の斜面には再植林が進められることになりました。これは、中国中央部・南部のみならず、インド、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの治水にも役立つ良いニュースとして当初は受けとめられました。

しかし、現実にはチベットでの森林伐採は続きました。政府の伐採禁止令は、業者が地方の役人に払う賄賂の額を吊り上げただけでした。その結果、木材の価格は上昇し、ぜいたく品となったのみならず、非合法の森林伐採業者がさらに増加したのでした。

ヒマラヤ・モミ、オーク、シャクナゲなどが茂る、かつての立派な森は、今日も破壊が進んでいます。チベット全土で伐採が続いているというチベット人亡命者の目撃証言はアメリカの農務省の実地調査によって裏付けられました。森林破壊がもたらす結果は恐ろしいもので、遠く離れた中国本土でも、森林減少を原因として頻繁な洪水に見舞われています。

チベットの各地で広がっている非認可の採掘プロジェクトも、大規模な環境破壊を引き起こしています。山腹は掘り返され、有毒廃棄物により水質と土壌は汚染され、採掘地域の農地の収穫量は減少しています。こうしたプロジェクトは多くの場合、無認可か、賄賂と引き換えに認可を取り付けた民間事業であり、環境に対する考慮はありません。牧草地と耕作地は打撃を受け、住民は政府によって立ち退きを命ぜられました。中国政府は、チベットで天然ガス、石炭、クロム鉄鉱の採掘を進める大規模インフラ整備プロジェクトに投資し、チベットの塩湖からプラスチック、化学肥料、マグネシウムなどの原料採取量の増加に注力する計画を公式に発表しています。

チベット平原の一部は、公害に対する配慮が殆どないまま、すでに高度な工業化が進んでいます。チベット北端のツァイダム盆地の油田では、年間2百万トンの原油が採掘され、付近の石油精製場に送られています。アスベストの採掘場、アルミ精製場、亜鉛の採掘場などが、中国政府と親しい企業の手で運営されています。工場の所有者、経営者は、しばしば、現地で環境保護を担当している役人と同一の人々であると見られます。そのため、チベット人が行う、公害防止設備設置の要求は聞き入れられないのです。

レブコン(中国語では同仁)の北部、チベット人の静かな牧草地、ロンウォチュー渓谷にある同仁アルミニウム精製所のケースは、チベット人の無力さを典型的に示しています。公害防止設備がないため、有害フッ化物を含む噴煙がこの精製所から発生し、周辺の牧草を食べた羊の歯が抜けてしまい、餓死する事態となりました。公害を管轄する近隣都市の担当者は、この精製所の所有者の一人であったため、チベット人の抗議には何の回答も与えられませんでした。

チベットの地域のなかには、深刻な環境破壊の現場を見せたくないから、あるいは、政治的にデリケートな地域だから、という理由で、外国人が訪問できない場所が沢山あります。たとえば、ラサ近郊のロカ地域には巨大な採掘工場があり、僧院が最近閉鎖されました。この地域の訪問は禁止されています。

科学者によれば、チベットの環境破壊はチベット人の生活に悪影響を与えるだけではなく、地球の気流に影響し、その結果、世界の気候にも悪影響を与えるとのことです。

チベット人に、地元で活発な産業プロジェクトと、その影響について質問してみてください。木が伐採される現場、もしくは伐採した木材を運ぶトラック(実際には、積荷を覆いで隠して見えなくしているトラックが多いのですが)といった伐採の証拠はありませんか? 立ち入りが禁止されている地域があるとしたら、その理由が何か、そこに何があるのかを知っていますか? 土壌と水質はどの程度汚染されているでしょうか? 土壌浸食や地滑りが人災である証拠はありますか? 野生動物を何匹、何種類見ましたか? チベットの環境破壊について、チベット人はどのくらい認識していますか? チベット人自身は環境に対してどのような態度ですか?

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軍事化とコントロール

チベット全土に軍事基地と警察署が散在しています。どんな町にも一定規模の軍隊が駐留しており、チベット本土を空間移動すれば、チベット人、外国人双方に対する検閲所が至るところにあるのが分かるでしょう。チベット人の自由な移動は、全く許されないか、制限されています。登録された居住区から離れて旅行するときは許可証が必要で、違反した場合には、しばしば重い罰金と、家族に対する懲罰が課されます。単に役所で手続きして許可証を得れば旅行が出来るというのではなく、移動そのものが禁止されているか、もしくは非常に厳しく制限されているのです。一方、中国人移民に対する管理と制限は、チベット人ほどには厳しくありません。軍隊や警察がいたるところに駐留しているのは、政治議運動を直接的に牽制す� ��ためです。どこかで氾濫や暴動が起きた場合、速やかに現場に結集できるようになっています。とりわけ政治的緊張が高まったときには、街における軍隊、警察、その他の監視機関の数は倍増し、ときには夜間外出禁止令が出されます。こうした監視の対象となっているのは、チベット人、そして、外国人旅行客です。中国人には、許可証の申請や身分証明書のチェックは求められません。

旅行者が詳細を掴むのは難しいのですが、チベットを旅行する際には、軍事基地、刑務所、監視装置、警察、パトロール隊、検閲所がおおよそどこにあって、それぞれがどれくらいの規模なのかを把握するようにして下さい。街を歩いている、もしくは観光スポットや寺社にいる制服姿の人々の数はどのくらいか。一部隊に相当するような大規模な軍用車の移動を目撃しましたか? どこで目撃し、彼らはどの方角に向っていましたか? 何を輸送していましたか? チベット人に、旅行をするかどうか、旅行をする際にはどのような手続きが必要で、どのような制限があるのか、質問してみて下さい。

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医療と健康

中国人とチベット人のあいだには受けられる医療の質に大きな隔たりがあります。とくに政治活動に関わったチベット人は、ろくな治療を受けられません。刑務所では不調を訴えるチベット人は、労働をサボっているとみなされ、医者の診療を拒まれるのが普通です。治療を受けられたとしても、時代遅れで不適切な処方がなされます。入院させるのは、患者が瀕死の状態にあるときだけで、それもほんの短期間だけです。獄内で適切な治療が受けられなかった受刑者は、釈放された後も回復や治療に長い時間がかかり、多くの政治囚は受刑中の傷病が命取りとなって死亡します。

都市部と農村部の医療施設の質には大きな格差があります。農村部のチベット人や遊牧民は衛生観念に乏しく、中国政府から保健に関する教育を受けることは一切ありません。彼らは、病気になっても医療を受けることが著しく困難です。中国政府は、チベットの「発展」と病院の建設を喧伝していますが、そうした施設の大半は都市部にあって、中国人移民を対象としています。農村部のチベット人や放牧民が利用できる医療機関はごくわずかです。彼らの家から医療機関までの距離は遠く、移動は物理的に困難、あるいは高い交通費がかかるため、現実には医療を受けることができないのです。

都市部のチベット人は医療を受けることが出来ますが、大変、お金がかかります。彼らは、非常に深刻な病状のときでさえ、年収の数倍にあたるような法外な保証金の支払いを要求されます。治療費は高額なうえ、治療の内容は中国人の患者(彼らは保証金を払う必要はありません)と比べ見劣りします。病棟の設備は貧弱で、これも中国人患者と差をつけられています。

現代中国文化から輸入され、中国当局の黙認、もしくは秘かな支援のもとにチベットで急成長しているのが、非合法の売春です。ラサでは2000年には1,000以上の娼館で、少なくとも7,000人のチベット人女性が売春に携わっていました。当初、売春婦の大半は中国人で、現在も少なからぬ数の中国人売春婦がいるのですが、教育のなさと貧困のせいで、チベット人売春婦の数も増加しています。衛生観念の欠如とコンドーム未使用の結果、こうした女性は大きな健康上のリスクにさらされており、ひいてはチベット人全体をリスクにさらしています。エイズは中国で蔓延しています。チベットではエイズに関する教育プログラムはなく、予防措置や治療もありません。チベットでエイズ患者が未だ確認されていないのは、単にエイズ検査がさ� �ていないからに過ぎません。

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自己評価と反射の目的は何ですか?

強制避妊、中絶

強制中絶は、チベット人女性にとって深刻な問題です。 多くの地域で、かつてチベット女性は子どもを産めるだけ産んでいましたが、その多くに避妊手術が施されるようになり、その結果、障害を持ったり、働けなくなるほど健康を害したり、ときには死に至る人がいます。多くの女性は健康に問題があっても医療機関に行くことをためらいます。強制的に避妊や中絶させられるおそれがあるからです。

チベットを旅行中、医療機関、病院の立地を意識的に観察して下さい。大きく、新しい施設の近隣に住んでいる住民は中国人かチベット人か確認して下さい。さまざまな場所で、医療機関はどのくらい遠くにあるのか、そこに行くのにどのくらい交通費がかかるか質問してください。中国人とチベット人が受けるサービスには違いがありますか? 治療費はいくらですか? 受けられる治療の質をどう思いますか? 中国人、欧米人、そしてチベット人が受ける治療は、西洋医学、中国医学、チベット医学のどれに基づいていますか?チベット人はエイズをはじめとする性病の知識がありますか? 都市部と農村部のチベット人で、その知識に違いはありますか? エイズや性病の予防法を知っていますか? 公的な保健教育のプログラ� ��はありますか? 日常生活の中で実践できる衛生の手法を知っており、それを実践していますか?

▲「チベット旅行者のための状況説明書」目次へ

チベットを旅行する

チベット自治区の外を旅行する場合

今日、チベット本土の半分未満の小さな地域が、チベット自治区に指定されており、チベット東部は中国本土に分類されています。チベットの旧アムド、カムの地方の大部分は、今日、青海省、甘粛省、四川省、および雲南省に併合されています。現在、こうしたチベット自治区以外の地域における外国人の旅行は自由です。中国化された大都市を離れると、伝統的な生活スタイルを比較的良く守っているチベット人を見ることが出来ます。農村部では、地域独特のチベット様式の建築が残っています。ただし、宗教活動には規制が敷かれており、チベットの祭祀は禁止されているか、制限されています。

中国国内旅行ができるビザを持った個人旅行者は、これらの地域の大半を自由に旅行できます。ただし、採鉱現場や「開発」プロジェクト、刑務所、軍事ベース、最近、政治暴動があった場所などは、チベット自治区の内外を問わず、旅行者の出入りは禁止されています。

許可証・ビザ

チベット自治区以外のチベット地域の旅行には、中国本土の旅行に必要なビザのみが必要です。各国の中国大使館で簡単に取得できます。

移動

地元のバス、トラックに乗せてもらうか、乗用車を借りて自由に移動できます。

宿泊

場所によって宿泊施設の制限は異なります。ある場所では外国人旅行者が泊まれるのはホテルだけですが、別の場所ではチベット人の家庭への宿泊が可能です。ただし、地元のチベット人の家庭に泊まる外国人は、当局の監視を受けます。

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チベット自治区内を旅行する場合

中国がチベットと指定する地域=チベット自治区内の旅行には、制限が課されており、高額なビザの取得が必要です。法規制は事前通告なく頻繁に変更され、その適用は恣意的です。

政治的な記念日や政府高官の訪問時といった、高度にデリケートな時期にはビザの発行、期間延長が停止されます。特定の地域で政治的な運動が高まった際には、その地域も突然、立ち入り禁止になります。ですから、個人旅行の際には、あなたが旅行しようと思っている地域の規制情報を事前に、そして旅行中も入手し続ける必要があります。

現時点では、チベット自治区では個人旅行は許されていません。旅行をする際には、運転手、ガイド、ジープ付きの公式ツアーに参加するか、現地の旅行代理店に旅行をアレンジしてもらう必要があります。

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許可証について

チベット自治区内の旅行は厳しい監視と規制下に置かれますが、そのうち、とりわけ厳しいのが入国ルートです。入国に関する規制は事前通告なく変わることがあります。現状、チベット自治区を旅行する外国人観光客用の許可証が四種類あります。

1 中国のビザ
- 殆どの中国大使館で簡単に入手できます。あなたの旅行先がチベットであると窓口で告げることは賢明ではありません。その結果、ビザの発行が遅れる場合があります。ネパール経由でチベットに入る場合は、自分の国でビザ申請するより、カトマンズの中国大使館で申請する方が簡単に発行されます(ネパール経由でのチベット旅行を参照のこと)。

2 チベット観光局の許可証(TTB。チベット自治区へ の 入国に際して必要)
- ラサをはじめとするチベット自治区内の旅行に必要です。ラサ行きの飛行機あるいは列車の切符の購入時、そして搭乗時に提示を求められます。TTBの申請には、中国ビザと6ヶ月以上有効期間が残っているパスポートの提示が求められます。一般に、必要書類の提出からTTBの発行までに3日かかります。コストは、取得する地域によって異なります。有効期限はありません。

3 外国人旅行許可証(PSB。チベット自治区の「非開放」地域への旅行に際して必要)
- 「開放されていない」地域を訪れるときに必要で、地域公安局(PSB)の外務部で発行されます。通常、ラサに到着したときに申請します。発行までに数時間かかり、費用は一人当たり50元です。現状、PSBは、ツェダン、シガツェ(エベレスト山を含む)、ギャンツェ(カイラス山とマナサロバー湖を含む)、ニンチ、チャムドを訪れるときに必要です。

- ちなみに、ジャーナリスト、外交官、政府関係者はチベット関連の入国許可証(TTBとPSB)は必要ありません。中国は外国人ジャーナリストによるチベット報道を注意深く監視しています。彼らがチベットを訪問するときには中国政府外交部に旅行を手配してもらう必要があります。

4 軍部による許可証(「軍事的にデリケートな」地域の旅行に際して必要)
- チベットにおける軍事的にデリケートと見なされる地域を旅行する際に必要で、具体的には、ンガリ、ニンチ、ナクがその地域に該当します。許可証はラサの軍隊駐留所で発行され、パスポートとチベット関連許可証(TTBとPSB)の提示が必要です。取得には1〜4日かかり、費用は一人あたり100元です。

チベット滞在中に以下のような規制が強化される可能性があります。

* 許可証、ビザの取り消し、延長の不許可
* 監視の強化
* 軍隊のプレゼンス強化
* 夜間外出禁止
* 公安局による深夜のホテルチェック
* 道路での検閲強化
* 行脚や香を焚く行為の禁止
* チベット人に対する許可証のランダム・チェック

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中国本土からチベットに入る

チベットに入る方法はいくつかあります。中国本土からラサに行くには陸路、空路の双方があります。

飛行機で
個人旅行者は、旅行代理店を通じて切符を購入します。旅行代理店はこうした個人旅行者を集めて即席のツアーグループを作ります。

西寧-ラサ 週四便の直行便があります。ただし、ゴルムド-ラサ間の運行バスと比べると相当、割高です。
成都-ラサ ハイシーズンにはエア・チャイナが一日二便。北京(西安、成都経由)、広州、重慶からもラサ便あり。
昆明-ラサ 現在、週一便運航。

自動車で
成都、昆明、西寧(ゴルムド経由)およびカシュガルからラサに入ることが出来ます。旅行者は、旅行代理店が手配するガイド、運転手付き四輪駆動車に乗り合うか、公共バス、あるいは、青蔵鉄道でチベットに入ります。ヒッチハイク、自転車での旅行は違法ですが、実際にはそうした旅行をする人もいます。

四川 − チベット・高速道路 高速道路がバタンやデルゲまで通じており、成都から公共バスが運行しています。それから先は、公共交通は殆どなく、トラックは外国人旅行者を乗せていることが当局にバレると高額の罰金が課されます。自転車やヒッチハイクで旅行している人々は夜間に旅行することで検閲所のチェックを逃れることができますが、見つかった場合には、高い罰金が課せられるほか、前泊した村やホテルまで戻らされる可能性も高いです。
雲南 − チベット高速道路 昆明−ラサは、大理やデチェン(「シャングリラ」と改称させられた)経由の全長2,400キロの雲南―チベット高速道路でつながれています。その高速道路の終点が「チベット自治県」です。デチェンからラサに向う途中、マーカム付近で、四川―チベット高速道路と合流します。
カシュガル − ラサ高速道路 全長2,884キロの西寧-チベット高速道路が開通しています。カイラス山を経由していくため、長く、あまり快適ではありません。
ゴルムド(青海省) − ラサ 定期的に公共バスが出ています。所用時間は28〜48時間。

青蔵鉄道で
2006年7月に開通した青蔵鉄道は北京-ラサ間を走っています。技術の粋を集めた鉄道であると同時に、チベット文化の保護の観点からすると、深刻な悪影響が懸念されるものです。
同鉄道は、鉄道の通過地点としては世界最高の地点である海抜5,072メートルのタンギュラ山口を通過していきます。ゴルムード―ラサを結ぶ線の8割以上、960キロは海抜4,000メートル以上の地点を通過します。橋の総数は675で全長は159.88キロ。路線の半分以上の地域は永久凍土で覆われています。

北京からラサまでの所要時間はわずか50時間足らず。距離にして4,064キロです。平原は時速160キロで走り、青海-チベット区間に入ると時速120キロにスローダウンします。成都からの直通路線も開通しており、上海、広東からラサまでの路線も近く開通する予定です。

青蔵鉄道の背景と懸念される悪影響
青蔵-チベット鉄道開通後、ダライ・ラマ法王は、この鉄道が人々の生活・雇用に与える悪影響、中国本土からラサへ売春婦が流入する可能性、ラサの文化保護に対する懸念を表明し、チベット人の社会疎外を一層、推し進めるものとしました。「鉄道は中国人のチベット流入と天然資源の中国への流出を目的としている。チベットを襲う津波のようなもので、伝統、文化、そして天然資源が運び去られようとしている」と言明しています。

鉄道開通後1年の年間累積乗客数は150万人、そのうち半分が観光客でした。鉄道建設・維持にかかる膨大なコストは観光だけで賄えるものではありません。中国政府がこの鉄道開通を決断した最大の理由はチベットの膨大な天然資源の採掘です。青蔵鉄道はチベット自治区ナグチュ近郊の膨大な金鉱、および青海省のキェグドの銅山の付近を通過します。ラサから南方のシガツェに路線を延長する計画がありますが、シガツェ近郊のシェトンモン県には、中華人民共和国領土内最大の銅の鉱床があると言われています。

多くのチベット人は、鉄道建設のために、ごくわずかな補償金と引き換えに立ち退きを余儀なくされました。たとえば、100世帯の村が村ごと壊され、住民は2.5キロ離れた新しい定住地に移動させられました。住民は、移動先についての自由は与えられないまま、牧草地と家を失ったのでした。

鉄道の建設で修復不能なまでに牧草地を壊された遊牧民に、補償は与えられていません。大量の車両が鉄道用トンネルのために山を削り、岩や土を切り出しましたが、不用な土砂が牧草地に投棄されたため、草が生えなくなってしまいました。中国政府の推進する強制定住政策のもと、遊牧民は移動先で当局に提供された賃貸住宅に追いやられ、与えられた土地は柵で囲い込まれています。そうした環境で遊牧民は生活に窮し、債務を抱えるケースが多いです。中国は牧草地の保護、遊牧民の貧困からの脱却、チベットの発展を公約していますが、現実に起きていることは、公約の正反対です。

鉄道建設はまた、脆弱な高原の生態系に深刻な被害をもたらしました。鉄道開通によって天然資源採掘が一層、加速し、牧草地の疲弊が進んだことに加え、土壌汚染、水質汚染、野生動物の生態系の破壊も起きています。

さらに中国政府は、青蔵鉄道はチベットへの軍隊の移動の主要な手段になると言明しています。すでに、鉄道の開通により、中国人移民の流入は加速しています。中国本土からやってくる移民はチベットで商売をし、お金が溜まると故郷に引き上げます。チベット人には何の恩恵ももたらしません。

チベットを旅行すると、青蔵鉄道が出来て得をするのが誰か、分かるでしょう。それは、中国人、とりわけ移民と出稼ぎの労働者なのです。鉄道の服務員にチベット人はいますか? 乗客のどれくらいがチベット人ですか?

青蔵鉄道の駅
西寧からラサの青蔵鉄道の全長1,972キロには全部で45の駅があります。ユーズー山頂駅、チュマール川駅、ツオツオ川駅、ブキアンゲ駅、タンギュラ山駅、ナムツォ駅、ナグク駅、ダンソン駅、ヤンバジン駅の全部で9つの駅に展望台が付いています。プラットフォームは長さ約500メートル、高さ1.25メートルあり、乗客は日中は、電車から降りて、写真が撮ることができます。

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ネパール経由でチベットを旅行する場合

ネパール経由でチベット入りする際には、カトマンズの信頼できる旅行代理店で、中国ビザとチベット旅行許可証(TTB)を申請する必要があります。すでに取得済みのビザも、カトマンズで無効になり、在カトマンズ中国大使館領事部が発行するビザと差し替えることになります。この領事部のビザ窓口は月、水、金の午前中に開いています(祝日は除く)。チベットに出発する3日前にはカトマンズ入りすることをお勧めします。

注意:グループ申請について。中国からの出国が別々な場合、グループでのビザ申請ではなく、個人ビザを申請しなければなりません。

飛行機で

カトマンズ-ラサ便

エア・チャイナが現行、週三便就航しています。

自動車で

カトマンズ-ラサ

運転手付きの四輪駆動車をレンタカーしてドラム(ツァングム)の国境を越えることが出来ます。カトマンズの旅行代理店で陸路でチベットに行くツアーを申し込むことも出来ます。

カトマンズからラサ週一便のバス便は、乗客に中国ビザ取得のトラブルがあったため一時中断されましたが、2008年1月より再開される模様です。

ただし、このバス便は冬季は積雪のため運行停止になることが多いので注意が必要です。

プラン経由
カイラス山のおよそ120キロ南方にあるプラン近郊のシェール(ネパール語ではコジナス)からチベットに入るパッケージツアーに参加できます。シェールには、ネパール西部のシミコットから5日間のトレッキングで到達できます。

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チベットの観光スポット

寺社仏閣

チベット仏教を活性化させているのは観光です。中国政府は寺社仏閣の商業的な価値を認識しています。地元民と観光客からの賽銭、そして、聖地を訪問する観光客がさまざまなサービスを利用することで落とす金が、中国を潤しているのです。

ですから、寺社で賽銭をする際、あなたの喜捨を確実にチベット人に届かせる唯一の方法は、直接、僧侶たちにお金を渡すことです。拝観料が中国政府のポケットに入ることはもとより、ケンポ(僧院長)は祭壇に置かれた全ての供え物を政府に拠出する義務があります。僧侶、もしくはケンポ自身に直接手渡された金だけが、彼らのものになるのです。当局に気がつかれないように、こっそりと。

宗教施設を訪れるときは、それが寺社であろうが、カイラス山のような自然の場所であろうが、チベットの習慣に従って下さい。キチンとした服装をして、帽子は取り、煙草を吸ったり、唾を吐いたりしないで下さい。寺社、仏像、施設は時計回りに回って下さい。僧侶や尼僧の頭を絶対に触らないで下さい。人々や儀式の写真を撮るときには、目立たないように配慮をしてください。まず写真を撮ってよいか聞き、静寂を守り、カメラで彼らを邪魔することのないように。

僧院や尼僧院を訪れると、チベット人があなたにダライ・ラマ法王の写真をくれないかと言ってくるかもしれません。それは、チベット自治区および、他のチベット人居住区でも、完全に禁止された行為です。禁止にもかかわらず、チベット人のあいだではダライ・ラマ法王の写真の人気は高いのです。あげるか、あげないかはあなたが決めることです。発見された場合には、あなたは国外退去となり、あなたと接触したチベット人は尋問を受けます。ただし、パスポートサイズの小さな写真はこっそりと渡しやすいです。写真以外では、マニ・リンルブ(ダライ・ラマ法王の祝福を受けた小さな玉)やトゥンガ/ジェンドゥ(同じく祝福された腕輪・編んだ紐)が喜ばれます。これらは見つかったとしても、ダライ・ラマ法王と直接結� ��付けられることはありません。

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ラサ

ラサは、もともと、ポタラ宮殿とジョカン寺の回りに出来た小さな村でした。1949年以前のラサの推定人口は2〜3万人でした。今日のラサは、中国系の移民だけでも25万〜30万人が住む、ガラスとタイルの建物ばかりの殺風景な大都市になってしまいました。チベットらしさが残っている唯一の地区は、ジョカン寺付近ですが、ここも、古い建物は取り壊され、チベットの伝統的な建造物を中国がコピーしたビルと大型高層ホテルによって取って替わられつつあります。

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ポタラ宮殿

かつて、ダライ・ラマ法王の冬の邸宅だった宮殿は、中国占領後、単なる博物館のような、墓場のような場所になってしまいました。今日、ポタラ宮殿はユネスコの世界遺産として保護されています。ただし、中国政府は依然として、部屋の多くを閉鎖しており、建物の大半に観光客は入ることが出来ません。警察とスパイが至るところにおり、監視カメラが見張っています。

ポタラ宮殿は、13階建て、高さ117メートルで、中にはさまざまな名刹があり、過去八代に遡る歴代ダライ・ラマ法王の墓があります。ポタラ宮殿の建造が始まったのは、7世紀、チベットの最も偉大な王の一人、ソンツェン・ガンポが建造主でした。その後の歴代ダライ・ラマ法王は1641年まで増改築を続けました。赤の宮殿は、摂政デシ・サンギェ・ギャツォが建造したもので、1693年に完成しました。ダライ・ラマ五世は1682年に崩御しましたが、政治的な混乱を避けるため、摂政はこの建物が完成するまで彼の死を秘匿しました。

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ポタラ広場

ポタラ広場は「チベット自治区の30周年を記念するため」、周辺の人家を壊して作られました。ラサの天安門広場とも言える場所で、軍用車のための巨大な駐車場であり、また軍隊が示威行為を行う場所です。中国人観光客にとっては人気のカメラスポットで、ポタラ宮殿の正面に五星紅旗が舞っています。ここは、タシ・ツェリンが1999年8月、禁じられているチベット国旗を掲揚しようとした場所でもあります。その数ヶ月後、ツェリンは中国警察に与えられた負傷のせいで死亡しました。広場の南西角には公安局があり、警察の車が留まっていることからそれと分かります。中国政府は、重要な集会にこの広場を使います。中国の国旗は今では広場の至るところで掲揚されています。

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バルコル

最近、(軍用車のために)拡張されたデキ・シャー・ラム(中国語で北京ドンル)に面した地域は、聖地ラサの中心地です。ジョカン寺を囲むバルコルは、ラサに残る「チベットらしさ」の最たるものですが、消え行く方向にあります。1980年代に、バルコル広場と命名された場所は、頻繁に設計変更が行われていますが、チベット民族主義につながりかねない、いかなる集会も弾圧できるように出来ています。広場と、コーラ(行脚道)の両方が、監視カメラと、制服・私服双方の警官によって常に監視されています。独立スローガンを唱える個人や小グループから大規模な抗議集会まで、自由を求める1980年代後半のデモの大半はここで起きました。この地で多くの血が流されましたが、その生き証人とも言えるオリジナルの丸石の石� �ははがされ、現在は、ツルツルした御影石の舗道が敷かれています。


バルコールの行脚道の南西、ちょうどマンダラ・ホテルがある角には、公安局の駐屯所があり、軍用車が内部の駐車場に自由に往来できるように大きな出入口があります。コーラの南道を歩くと公安局の大きな漢字の看板が見えますが、皮肉なことに、この公安局は遠くのポタラ宮から直接見下ろせる場所に位置しています。

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ジョカン寺

ジョカン寺は、文化大革命時は、兵営であり、虐殺が行われた場所ですが、その後、中国の役人が泊まるホテルになりました。チベットには文革前に壊された寺社が多いのですが、ジョカン寺をはじめ、いくつかが破壊を免れたのは、穀物庫あるいは中国の役人の宿泊施設となったからでした。寺社内の仏像や宗教関係のオブジェは、ポタラ宮のもの同様、壊されるか、中国に持ち帰って売り飛ばされました。

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ノルブリンカ

ノルブリンカは、かつてダライ・ラマ法王の夏の邸宅だったところです。1959年にダライ・ラマ十四世がここを抜け出した夜、中国の砲撃がもぬけの殻の建物に加えた傷は、今は残っていません。城外でチベット人が繰り広げた激しい抵抗の跡も何も残っていません。ノルブリンカは観光用のドル獲得の手段として維持管理されています。ノルブリンカ維持のもう一つの主な理由は、9月のショトン(ヨーグルト)祭りを真似て、中国人が祭りを行うためで、ノルブリンカの敷地内は中国人が運営するギャンブルの屋台と見世物で一杯になります。

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ラモチェ寺

ラサの北西に位置するラモチェ寺は、ジョカン寺に次いで重要な寺ですが、7世紀にウェンチャン妃が嫁入りに際して持参した釈迦牟尼像を収蔵するために建立されました。長い建造期間を経てジョカン寺が完成すると、この釈迦牟尼像はそちらに移されました。今日のラモチェ寺の本尊は、ソンツェン・ガンポのネパール人の妻がラサに持ち込んだものだと言われています。1960年から83年にかけてこの像は行方不明になりましたが、モンゴル軍の侵攻時にすでに行方不明だったという説もあります。発見されたときには、像は二体ありました。

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カイラス山

標高6,714メートルのカイラス山(ガン・リンポチェ)と、その付近にあるマナサロワール湖(その両方をあわせてカングリ・ツォスム・ポンリ・ンガデンと言います)は、古代シャンシュン王国の中心地だったとされており、仏教渡来前の土着宗教ボン教の発祥地でした。12世紀には、ここで、ボン教のシャーマン、ナロ・ボンチュンと、仏教の聖人、ミラレパのあいだで魔術を競った戦いが繰り広げられたとされています。ミラレパの勝利により、ボン教はチベット随一の宗教の地位を失い、以来、仏教が中心的な地位を占めるようになります。12世紀以降は、カイラス山山麓ではカギュ派の勢いが強くなり、僧院や瞑想所が次々に設立され、ガン・リンポチェを信奉する巡礼者が大挙して訪れました。

カイラス山は複数の宗教の聖地です。仏教徒にとって、カイラス山は、釈迦牟尼の怒れる化身とされているデムチョックが棲む場所です。ヒンズー教徒にとっては、破壊の神シバ神の家です。さらに、ビシュヌ派の言い伝えによれば、カイラス山は、宇宙の中心にある山であるスメル山の表象です。カイラス山からはインダス川、サトレジ川、ツァンポ川(ブラマプトラ)およびカルナリ川の四本の川が流れています。聖なるガンジス川の源流もまた、この付近にあります。チベット人はこうした川を全て聖なるものと考えており、その源流があるカイラス山を崇めています。

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マナサロワール湖

海抜4,556メートルに位置するマナサロワール川は、世界で最も高い場所にある淡水湖です。チウ・ゴンパ僧院は湖に面する鋭い岩壁の上に立っていて、パドマサンバワ(蓮華生)が晩年の7年をここの洞窟で過ごしたとされています。湖水はトルコ石のような深い色をしており、ヒンズー教徒は、この湖をブラーマ神の心が創造したものと考えています。

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チベットの僧院

デプン僧院

ペルデン・デプン僧院は15世紀初頭に建立され、絶頂期にはチベットで最大の僧院、あるいは世界最大の僧院であったとされています(1641年の在籍僧侶数1万人)。デプンは政治的にも重要な場所で、ダライ・ラマ五世がポタラ宮を建立する前は、ゲルク派の総本山でした。当初は7つの学校(ダツァン)に分かれていましたが、その後4つに統合され、その4つのいずれもが別々の寄宿舎と講義要項を有しています。密教の学校であるンガクパ・ダツァンは、ツォンカパ自身が教鞭を取っており、デプン僧院のなかでも最も力強い彫像であるドルジェ・ジグチェ/チョギエル・チャクタクマ(水牛の頭をしたゲルク派の本尊)もここにあります。たびたびの戦乱や略奪にも関わらず、建物の大部分は荒らされておらず、17世紀〜18世紀に作られ� ��建物がそのままの形で残っています。1980年に約500人の僧侶によって再開されましたが、その後、中国愛国教育キャンペーンによって僧侶数が削減され、現在は約300人が在籍しています。

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セラ僧院

ラサから4キロ北方に、セラ僧院があります。セラ僧院は1417年にツォンカパの弟子によって建立され、そこで高僧と一番弟子たちが隠遁生活を送っていました。1959年にはセラ僧院の僧侶の数は5,000〜6,000人でしたが、今は、数百人程度となっています。建立時の建造物は破壊されていますが、主要な学校と羅漢図、羅漢の彫像等は保存されています。羅漢図のなかには、インドから空を飛んでやってきたと言われているヴァジラの彫像が残されています。セラ僧院観光のハイライトは、問答専用の中庭で行われる、僧院中の僧侶が参加する午後の問答セッションです。チベット語を理解しなくても、喧騒から問答の白熱した様子が伝わってきます。

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ガンデン僧院

ツォンカバは、ゲルク派の最初の僧院をガンデンに作ったと言われており、その建造年は、1409年とも1417年とも言われています。ガンデン僧院は今でもゲルク派の総本山の一つであり、ダライ・ラマ法王ではなく、ガンデン僧院の大司教がこの僧院の組織を統括しています。ガンデン僧院は紅衛兵によって最も荒らされた僧院の一つで、文化大革命時には侵入、空爆、および砲弾射撃の対象となりました。

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タシルンポ僧院

1447年にツォンカパの甥にして弟子である人物が建立した僧院で、この人物は後にダライ・ラマ一世となりました。もともと聖なる鳥葬が行われていた敷地に建立されましたが、鳥葬の石畳の跡が、今でもこの僧院の床に残っています。タシルンポ僧院は、チベットにおける四大ゲルク派僧院のひとつで、最盛期には4,700人の僧侶を擁していました。規模は最盛期の3分の1程度となり、僧侶の宿泊施設の多くが破壊されましたが、今日、チベットで機能している最大の僧院です。主要な寺社、建造物は17〜18世紀のもので、1792年のゴルカ人の侵入・破壊の後、再建されたものです。最大の見物は、高さ26メートル、279キロの金箔で覆われた弥勒菩薩像で、1914年パンチェン・ラマ9世によって建立されました。

「パンチェン」という称号は、「偉大な学者」を意味し、伝統的にタシルンポ僧院の大僧正に与えられるものです。

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サムイエ僧院

サムイエ僧院は、チベットで最初に作られた僧院で、チベットに仏教王国を正式に確立したティソン・デツェン王(チベット人に文殊菩薩の生まれ変わりとして崇拝されています)の命により、パドマサンバヴァの手で775〜779年に建立されました。

■写真:サムイェ僧院の風景

その130年ほど前に、ソンツェン・ガンポによって仏教の寺社は建立されていたのですが、ボン教を信奉する貴族階級の反対があったため、当時はまだ、仏教は正式にチベットの国教になっていなかったのです。建立後、この僧院は長年にわたり、ニンマ派、サキヤ派、およびゲルク派の影響を受けており、そのため、チベットの民族アイデンティティの象徴と考えられています。

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チベットのトレッキング

トレッキングに適したシーズン

チベットは標高が高く、空気が薄いため、太陽光線が容赦なく降り注ぎます。目と皮膚を保護するため、SPF15以上の日焼け止め、サングラス、そして、リップ・クリームが必要です。SPF度数の高い酸化亜鉛クリームを強く推奨します。ルートにも依りますが、チベットのトレッキングに適したシーズンは4月から10月です。冬のチベットのトレッキングは観光客が少なく、景色を静かに楽しむのに適しています。

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高山病

標高8,000フィート(2,400メートル)以上の地域では、高山病にかかる危険があります。高山病の症状は、身体が慣れるまで、およそ2日間続きます。一般的な症状として、頭痛、立ちくらみ、吐き気、嘔吐、息切れなどがあります。身体を高地に徐々に馴染ませる(ゆっくり標高を上がるようにする)ことで、高山病を防止できます。にんにく入りのスープを飲んだり、頻繁に水を飲むことも役立ちます。休息しているときにも深刻な症状があらわれるようなら、標高の低い地域に移動し、医師の診察を受けて下さい。

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チベットの主要なトレッキング・スポット

エベレスト地区(チョモランマ)

歴史的に、世界の最高峰エベレスト山登山は、これまでネパール方面から行われるものが多く、さまざまな登山ルートが開発されていますが、チベット側からの登頂は稀でした。しかし、より珍しいルートを試したい登山者のなかには、チベット側からエベレスト登頂を目指す人もいます。チベット側からのエベレスト登山の登山ルートは、まず自動車でカトマンズからネパールの農村地帯を走り、中国との国境の町、ザンムまで行き、サンコシ川の深い渓谷を川上に登り、ティングリの古い町に至ります。ティングリからベース・キャンプまで登ると、エベレスト山の姿が見えます。

カイラス・マンサロワールの巡礼

千年以上も前から、人々はカイラス・マンサロワールへ巡礼に行き、山の神秘に信仰を捧げてきました。この地域を行脚することは、古くから今日に続く信仰儀礼です。ほぼ全てのウタランチャル・ヒマラヤの山道はカイラス・マンサロワールに続いています。クマオン地方の主要な山道として、リプレーク、ランピヤ・ドゥーラ、ヌウェ・ドューラ、ローウェ・ドゥーラ、ウンタ・ドゥーラ、ジャヤンティおよび、クングリ・ビングリがあります。

ナムチャグ・バルワのトレッキング

ナムチェ・バルワは、自然愛好家、とくに植物が好きな人にとって絶好の短いトレッキング・ルートです。スタート地点は、ペイという小さな村ですが、そこはぺルマ・コチュン経由でツァンポの大カーブに行くとき、もしくは、メトグに行くときの中継点になっています。フェリーに乗って川の北岸のティンペに行くと、そこは高僧リンポチェの洞窟と僧院がある場所です。そこからニーマラの山道を森とシャクナゲの茂み、遊牧民の住居や湿原を通って北方に歩きます。山道からは、アッサム・ヒマラヤ、ギャラペルリ、ナムチェ・バルワなどの風景が見られます。ニーマラ山道をさらに行くと、深い森林地帯であるロン渓谷に出て、5月から7月にかけては、一面に咲くサクラソウと紫アヤメが見られます。トレッキングのベスト・シ� �ズンは、5月から10月です。

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政治的にデリケートな日

3月5日 チベット独立のための大きな抗議行動が起きた日(1988年および1989年)
3月10日 1959年のラサ蜂起の記念日。国外の亡命コミュニティで毎年記念祝典が行われる。
7月6日 ダライ・ラマ法王の誕生日(1935年生まれ)
8月〜9月 太陰暦6月30日のショトン(ヨーグルト祭り)。多くの人が集まることから、この時期にさまざまなチベット独立に向けたデモが行われました。
8月1〜3日 リタン競馬祭: 数千人の地元の人々が集まります。2007年、ルギー・アドラックがステージに上り、中国に抗議した後、逮捕され、その後、リタンで大衆デモが起きました。そのため、ここ数年は、この祭りの時期はデリケートな時期と見なされています。
9月27日 ラサで最初の大衆デモが起きた日(1987年)
10月1日 中国の国慶節。ラサでの大規模抗議集会(1988年)
10月17日 アメリカにおける最高の市民栄誉である、米国議会の金メダルがダライ・ラマ法王に授与された日(2007年)
12月 太陰暦10月25日ガンデン・ンガ・チョエの日。 (ゲルク派の創始者、ジェ・ツォンカパ・ロブサン・ダクパの命日)。この日に多くのチベット独立関連デモが起きました。昨年来、中国当局はこの日をラサの僧院が祝うことを禁止しました。僧侶は、この日、僧院に入ることが出来ません。
12月10日 ダライ・ラマ法王にノーベル平和賞が授与された日(1989年)

これ以外にも、政府高官、国際的な代表団の訪問期間中に、さまざまな制限が課されます。

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モンラム・チェンモ

モンラム・チェンモは、チベット暦の1月1日に祝う大きな宗教上の祭りです。この祭りを創始したのは、ゲルク派を創始したツォンカパで、1409年のことです。デプン、セラ、ガンデンの三大僧院の僧侶数千人が、ラサのジョカン寺に集まり、祈祷を捧げ、宗教儀式を行います。

このお祭りの精神は、全ての宗派の高僧の長寿を祈り、仏法が普及して全ての生物に行き渡り、世界に平和が訪れるよう祈るものです。また平和を妨げる障害の克服を助け、人々が調和ある生活が送れる条件が整うように祈ります。最高のラランパ・ゲシェ(博士号)の位階(ゲルクパ派の仏教哲学の位階)のための試験もこの祭りの週に行われます。

このモンラム・チェンモの15日目(チュンガ・チョパ)にバター・ランプ祭りが行われます。昔は、ダライ・ラマ法王がジョカン寺まで出向いて、祭りの間に仏教の礼拝を行っていました。多くの人々が見守るなか、トルマ(供え物)がジョカン寺の正面のバルコル広場を曲がります。祭りの終わりには、トルマは、焚き火で焼かれます。祈祷と法話のためにチベット全土から巡礼者がやってきて、僧侶と尼僧に寄進をします。それ以外の僧院でも、特別な祈祷会が開かれ、宗教儀式が行われ、巨大なタンカ(仏画)が信者の前に開陳されます。

残念ながら、この祭りは文化大革命時に禁止されました。1985年に再開されましたが、1990年には再び禁止されました。現在、モンラム・チェンモ祭りはインドの僧院で徐々に活性化しています。

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チベットの祭り

チベットではさまざまな地域でいろいろなお祭りがあります。下に、ラサ近郊で行われる主要な祭りを列記しました。チベット全域で、夏には競馬祭りが、秋には収穫の祭りが催されます。同じ祭りも、地域によって祝う日にちが若干異なります。たとえば、シガツェ地方では、新年はチベット暦の12月の初めに祝います。

チベットのお祭りカレンダー (2008)

お祭りの名前 チベット暦での日程
チベットの新年(ロサール) 太陰暦1月1〜3日(太陽暦の2〜3月)
モンラムの祈祷祭り 太陰暦1月4〜15日(2〜3月)
バター・ランプ祭り(チョンガ・チョーパ) 太陰暦1月15日(2〜3月)
タシルフンポでのタンカ(仏画)開陳式 太陰暦5月15日(7〜8月)
サカ・ダワ 太陰暦4月1〜30日(5〜6月)
チョーコール・デゥチェン 太陰暦6月4日(7〜8月)
ザムリン・チサン/サミヤ・ドルデ 太陰暦5月15日(6〜7月)
ラバブ・デンチェン 太陰暦9月22日(10〜11月)

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よくある質問 (FAQ)

質問1:チベットを訪れるベスト・シーズンは?

回答: 5月から7月、および9月から10月をお勧めします。ラサ、ツェタン、シガツェは年間通じて観光に適しています。エベレスト山のベース・キャンプの地域は悪天候が続く10月から4月は訪問に不適です。冬季はチベット東部やンガリで積雪で道路が不通になる可能性があります。また、同地域では8月には大雨で通行止めになることがあります。

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質問2: チベットで使える通貨は? クレジット・カードやキャッシュ・カードは使えますか?

回答: 人民元以外には、米ドルが使えます。しかし、米ドルで支払えるお店はごく限られており、換算レートも良くないでしょう。中国銀行ではクレジット・カードで現金を引き出せますし、大きなホテルでもクレジット・カード決済が可能です。ATMはあまり普及していません。

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質問3:ホテルのベッドが清潔でないことを想定して寝袋を持参した方が良いですか?

回答:ラサ、ツェタン、シガツェ、ギャンツェといった都会の三つ星、もしくは四つ星ホテルでは衛生の心配は無用です。しかし、チベットの旅行はハードなケースもあることを覚悟してください。エベレストのような人里は慣れた場所では、道中でも眠れるよう、寝袋を持参することが賢明です。

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質問4:チベットの街は安全ですか?

回答:一般的にチベットは安全です。チベット人の大半は仏教徒なので、善行を積むことで、より良く来世で転生できると考えており、犯罪は稀です。ただ、野良犬は至るところにいて吼えますから、注意してください。

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質問5:どんな薬を携帯したらよいですか?

回答:チベット旅行に薬の携行は必須です。鎮静剤、風邪薬、下痢薬、吐き気止め、解熱剤の携行を推奨します。寒さに弱い人は、鼻や喉を潤す薬の携行をお勧めします。旅行前に、かかり付けの医師に相談して下さい。

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質問6:明日、ラサに出発するのに風邪を引いてしまいました。旅行できますか?

回答:リスクをとらずに旅行を延期することをお勧めします。呼吸器官系の問題に寒さは大敵です。チベットの寒冷な気候によって肺炎が誘発され、死に至ることもあります。風邪、心臓・循環器系疾患、呼吸器官の問題、高血圧、肝臓や腎臓の問題、貧血など、深刻な健康問題を抱えた人はチベット平原の旅行には適しません。こうした病気を持っていると、チベットの環境に馴染むのは難しく、病気の症状が悪化するおそれがあります。

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旅行のあとに

チベット人権民主センターは、主にチベット亡命者からの提供情報を元に、最新情報をアップデートしています。しかし、旅行者の皆様もまた、貴重な情報源です。旅行者の情報は、証拠写真があることが多く、その点がチベット亡命者の情報より優れているのです!

旅行から帰られた後、日付・場所を記した写真を含む情報、観察内容を送っていただければ感謝します。もし、重要な事件を目撃したり、第一次情報を取得した場合には、至急、下記に送ってください。

チベット人権民主センターの所在地:
Tibetan Centre for Human Rights and Democracy
Top Floor, Narthang Building
Gangchen Kyishong, Dharamsala
176215, H.P., India

Tel: + 91 1892 223363
Telefax: + 91 1892 225874
Email: offic
Website: www.tchrd.org

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推薦図書

歴史と政治関連の書籍【邦語訳あり】

「チベット我が祖国」 ダライ・ラマ法王著
「ダライ・ラマ自伝」ダライ・ラマ法王著
「雪の国からの亡命」ジョン・F・アワドン著
「チベット政治史」W.D.シャカパ著
「雪の下の炎」パルデン・ギャツォ著
「チベット女戦士アデ」アテ・タポンツァン著

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(翻訳者:吉田明子)

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